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幕末史の人気者のひとり、新撰組の沖田総司
「歴史好きというワケではないけど、新撰組は好き!」という方も多いはず・・・


その新撰組の中でもアイドル的人気があるのが、土方歳三と沖田総司ではないでしょうか。
写真も残っている土方と比べると、沖田総司は写真もなくミステリアスな存在ですよね。


この記事では、沖田総司の実際の強さや妻の存在、本当にイケメンだったのか?など、彼の謎めいた姿に迫ってみました!
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「天才剣士」沖田総司の強さについて解説!


そもそも沖田総司って、どれくらい強かったのでしょうか。
まず、彼の強さを見ていきましょう。


沖田総司は9歳の頃、江戸市中にあった近藤周助の天然理心流の道場・試衛館の内弟子になるのですが、その強さは試衛館入門前の子供時代から現れていたみたいです。
彼が親戚の井上源三郎の家に行った折りに、天然理心流の剣術を習っていた井上家の大人と立ち合って勝った事から「これは筋の良い子だからすぐにでも道場の内弟子にした方がよい!」という事で入門したというエピソードが知られています。

総司は幼くして両親と死別して貧しい暮らしをしていたのですが、この逆境が彼を「天才剣士」へと変えていったのかもしれませんね。


沖田総司の強さを示すエピソードは人生を通してたくさんあり、例えば1852年、総司12才の時には白河藩の剣術師範と対戦して勝ったとか、1856年には、16才で早くも近藤勇とともに出稽古に出向き指導したなど、早熟の天才らしいエピソードも伝えられています。

そして、新撰組の中心メンバーの一人であった永倉新八は「土方歳三にしろ、北辰一刀流の目録をもつ藤堂平助にしろ、沖田総司にかかると子供同然にあしらわれた。総司が本気になったら師匠の近藤勇も敵わないだろう。」と語ったほど、沖田総司の剣術の強さはズバ抜けたものであったようです。


また、京都在住時代には、副長助勤筆頭、一番隊隊長という要職につき、撃剣師範なども務めて隊士たちの指導にもあたっていました。

1864年7月の池田屋事件のときに近藤勇、沖田総司とともに斬り込んだ二番隊隊長・永倉新八の新撰組顚末記には、池田屋での沖田総司について「一人の志士が沖田に向かうとたちまち二、三合して沖田に斬られる」という目撃談を伝えています。

屋内での乱戦の中でも数回の切り合いで決着をつける沖田総司の剣術の強さは、やはり飛び抜けた実力だったと言っても過言ではなさそうですね。

※参照:斎藤一はどれだけ強かった?新選組の役職やその後について!

沖田総司に妻はいたのか?試衛館時代のエピソードとは?


ここで剣術を離れ、沖田総司のプライベートについてご紹介します。

やはり気になるのは、沖田総司には妻がいたのか?という事ですよね。


沖田総司には、結婚をして正式な妻をもったという記録は残っていません。

ただ、総司の恋愛に関する逸話として有名なのは、試衛館道場での修業時代に、想いを寄せた少女に告白されたことが挙げられます。これに対して総司が「修行中の身だから」と断ると、少女は恥ずかしさのあまり自殺未遂を図り、このことは思春期の総司の心に大きな痛手を与えたと言われており、京都在住時代には遊郭通いもあまり好まなかったのだとか。

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でも、ひとつ、ちょっと気になる記録があります。

それは1867年4月に、新撰組の菩提寺ともいえる京都の光緑寺にひとりの身元不明の女性が葬られていて、その墓碑銘が「沖田氏縁者」と記されていること。
この沖田氏とは、沖田総司のことである可能性が高いと言われていて、「縁者」という記述からは、恋人、あるいは内縁の妻のような存在である可能性が残されているのです。


実際、この女性の戒名と、沖田総司の戒名を並べてみると、とても釣り合いがよいのです。

総司の戒名は「賢光院仁誉明道居士」
女性の戒名は「真明院照誉貞相大姉」 

とはいえ、この女性が亡くなった同じ年の秋から冬頃には、総司自身も重い肺結核の病状となり、翌年の1868年には短い生涯の幕を閉じています。

沖田総司はイケメンだったのか?


その一方で、ドラマや漫画などの沖田総司のキャラクター像は、天才剣士のうえに明るい性格、でもその反面、病弱な色白のイケメンとして描かれている傾向があると感じますね。

実際のところはどうだったのでしょう。
沖田総司は本当にイケメンだったのでしょうか?



総司の容貌についての記録としては、「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」とか「肩の張り上がった」といったものが有名で、よく言われる「猫背」「長身」など美青年というよりは、体格のいい体育会系の青年という印象を受けます。

ところが総司の実家の沖田家では、「総司は色の白い、小さい男だった」と真逆なイメージで伝えられているのだとか。

でも新撰組一番隊組長として鬼神のような働きをしていた事を考えると、小柄で病弱ではムリがあるような気もしますよね。
両親とも幼くして死別しているので、短命の家系ではあったのかもしれませんが・・・



そして、総司の姉・ミツが孫の要がどことなく総司に似ている、ということで1929年に、要をモデルにして描かれた沖田総司の肖像画がこちら!

貼り付けた画像_2016_07_30_21_39

「沖田総司=イケメン」という印象が強かった当時の私は「えっ!?」と思ってしまったのですが、当時のイケメンの基準と今の基準は違う!と思い直した記憶があります(笑)もっとも、この写真は作られたものだと知って、少し安心しましたが・・

きっと、天才的な剣術の腕前と冷徹さの反面、明るく無邪気な性格という二面性や、新撰組一番隊組長として大活躍している反面、肺結核で若くして病没というドラマチックな人生が、カリスマ沖田総司像をつくりあげ、後世の人々は皆、この沖田マジックにやられて「沖田総司といえばイケメン天才剣士!」というイメージが確立してしまったのかもしれませんね。

イケメンであったか否かはともかく、沖田総司は女性から人気が出そうな、魅力的な人物であったことは間違いないのではないかなと感じますね。

この記事のまとめ


沖田総司の強さや妻の有無、イケメンだったのかについてご紹介しました。

沖田総司の剣術の強さは幼い頃から知られており、新撰組の主なメンバーの中でもその腕前は抜きん出たものでした。また、総司が結婚して正式な妻をもったという記録は残っていませんが、いくつかの恋愛のエピソードが伝えられています。

その容姿がイケメンであったのかは本人の写真が残っていないのでハッキリはしませんが、そのドラマチックな人生が、後世の人々の人気や支持を集め「沖田総司=イケメン天才剣士!」というイメージへと変化していったのかもしれません。


幼くして両親と死別し、剣術の道一筋に生きて、時代の動乱の中で短く花火のような一生を終えた沖田総司。
まさか後世でこんなに有名になるとは、本人が一番びっくりしているのかも・・・。

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