大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公である井伊直虎は、出家した時の法名「次郎法師」や、領主を努めた時に呼ばれた「女地頭」という名称でも知られています。

また最近では、井伊直虎は男だったという説も報じられましたね。

今回は、井伊直虎が「次郎法師」や「女地頭」といった名前で呼ばれた理由、そして直虎が男だったのかを検証してみました。
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井伊直虎はなぜ「次郎法師」と呼ばれたのか?


出家した女性の直虎が尼の名前ではなく「次郎法師」という僧名を名乗ったのには、井伊家を存続させるための深い知恵が隠されていました。一体どのような知恵だったのでしょうか?

井伊直虎は井伊家の本流である井伊直盛の娘として生まれ、直盛は息子に恵まれなかったため、娘である直虎が井伊家の後継ぎの第一候補になり、直盛は娘に婿を迎えて、婿を井伊家の後継ぎにするつもりでした。
そして、親族の井伊亀之丞(のちの直親)と直虎を婚約させますが、亀之丞の父・井伊直満が陰謀に陥れられて、主君の今川義元に殺されたため、亀之丞も命を狙われ、信濃国の松源寺へ落ち延びることに!そして、亀之丞は生死不明のまま、信濃で10年を過ごします。
この時、婚約者の直虎は亀之丞の消息を知ることはできず、当然、殺されてしまったのだと落胆し、井伊家の菩提寺である龍潭寺で出家してしまいました。

女性である直虎ですから、出家するとなれば普通は尼の名前になるのですが、尼の名を貰うことに直虎の両親が反対します。その反対した理由とは、尼になると還俗することが出来ないからというものでした。この時代、僧は還俗して武将になることが出来ましたが、尼は一度出家したら、二度と俗世には戻らず夫や亡き家族の菩提を弔うのが一般的だったのです。
直虎の両親は、後継ぎ候補の直虎の婚約者・亀之丞も生死不明の上に、直虎まで出家し尼になってしまったら、井伊家は断絶してしまう・・・という危機感から、両親はその名乗りに反対したのでした。

そこで直虎を預かった龍潭寺住職で大叔父でもある南渓和尚は、この両親の反対を理解し、直虎に「次郎法師」という僧名を与えます。気になる「次郎」という名前ですが、これは井伊家の当主が受け継いでいた惣領名です。この「次郎」に、出家したことを意味する「法師」をつけた「次郎法師」を直虎の僧名としたのです。直虎は井伊家の嫡子だから「次郎」を名乗る資格がある、という南渓和尚の知恵であり、この僧名によって直虎は、いざという時は還俗し井伊家の後継ぎとなることも出来ると南渓和尚は考えていたのかもしれません。

そして、直虎の両親や南渓和尚の思惑は的中して、直虎が井伊家の当主を務めなければならない事態がやってくる訳ですが、次郎法師となった直虎は、南渓和尚のもとで禅僧としての修行を積み、様々な学問も修め知識を深めていたので、当主として能力を発揮することが出来たと言われているのです。

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井伊直虎が「女地頭」と呼ばれた理由とは?


直虎の通称として「女地頭」という呼び名がよく使われますが、その由来は何なのでしょうか?
まず、地頭とは何かについてみていきましょう。

井伊谷を領地として治める井伊家は、戦国大名まではいかない小規模の領主で「国衆」とよばれる地位にありました。国衆とは、戦国大名の配下にありながら独立した存在として領地を治めていた勢力の事で、この支配構造のもとは鎌倉幕府の仕組みにさかのぼることができます。

鎌倉幕府は、日本各地に守護と地頭を配置していました。守護が各国を治め、守護の下に各地域を治める地頭をおくという仕組みが守護地頭制度です。中央から派遣される守護にたいして、地頭はその土地の領主が任命されて代々世襲制で務め、地頭を務める家に後継ぎの男子がいない場合は娘が当主になるケースもあり、ここから「女地頭」という呼び名が生まれました。

そして鎌倉、室町と続いた幕府の支配が崩れ戦国時代になると、有力な戦国大名の配下に国衆が従うという主従関係が生まれます。その土地の領主である「国衆」は地域の行政と警察・軍隊という役割を担っていて、「国衆」である井伊家でも当主はこの二つの役割のトップを務めたわけですが、当主にふさわしい人物が居なくなってしまった時には、一時的な手段として一族で手分けして二つの役割を担いました。

直虎が幼少の虎松(後の井伊直政)の後見人として井伊家の当主になったのもこのケースに当てはまり、「国衆」が行なう地域の行政と警察・軍隊という二つの役割のうち、警察・軍隊は井伊家の親族の男性たちが担い、本流ながら女性の直虎は、地域の行政を担うことになりました。そして戦国時代以前には地頭が地域の行政を担っていたところから、直虎が通称「女地頭」と呼ばれるようになったと考えられます。

※参照:井伊直政ってどんな人?年表や徳川家康との関係を紹介!

井伊直虎は実は男だった?井伊次郎ってどんな人?


ところで2016年12月、井伊直虎は実は男だった!?説が登場して話題になりましたよね。
一体どういう事なのでしょうか。

この疑惑について語っているのは、井伊家ゆかりの美術品などを保存・展示する京都にある井伊美術館の館長を努める井伊達夫さんです。井伊家の末裔でもあるこの方は、井伊家が藩主を務めた彦根藩の記録を調査した上で「直虎は、女ではなく男だった」との結論に至ったそうです。

井伊直虎という人物は、直虎の父親である井伊直盛の出家した娘「次郎法師」と、この時期に井伊谷を治めていた「次郎直虎」という人物が一致していた事がこれまでの研究の前提でした。しかし井伊さんの発表によると、井伊谷を治めていたのは「次郎法師」ではなく、今川家の家臣である関口氏経という武将の息子「井伊次郎」という人物だったとの事です。

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この井伊次郎は、井伊家の当主だった直盛ではなく、直盛の妻の甥に当たる人物です。そしてこの井伊次郎こそが「直虎」に当たるのではないか…というのが、井伊さんの主張の全体像になります。

今回の井伊さんの主張の真偽については、研究者の間でも意見が分かれており、今後の発表に注目が集まる所です。ちなみにNHKはこれまで通り「次郎法師=井伊直虎」という説を前提としてドラマを進めるのだとか。しかし、もしも「井伊直虎=井伊次郎」説が本当であれば、「おんな城主直虎」は完全なフィクションになってしまいますね(笑)

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この記事のまとめ


今回は、井伊直虎が次郎法師や女地頭と呼ばれた理由、そして直虎は実は男だった!?という説についてご紹介しました。

現代に伝わる戦国時代の井伊家の歴史は、江戸時代中期にまとめられた『井伊家伝記』という書物が元となっており、それ以外の事跡が記されている資料は少ないのです。井伊直虎が亀之丞(井伊直親)と婚約していたという話も、他の資料では確認する事は出来ません。その井伊直親については以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:井伊直親ってどんな人?妻や今川氏真に討たれた背景とは?