紫式部は、平安時代中期の女性作家、歌人であり『源氏物語』は世界中で翻訳され、現代に至るまで親しまれています。

学者で詩人である藤原為時の娘であり、藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を儲けています。夫の死後、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に『源氏物語』を記しました。女流作家の中でも世界的著名な女性作家の一人です。

今回は、そんな紫式部の家族関係について、父親の藤原為時や夫である藤原宣孝、その子供である大弐三位の3名を解説したいと思います。

紫式部の父親である「藤原為時」について。


紫式部の父親である藤原為時は、平安時代の中期、一条天皇の時代に歌人・漢詩人として活躍した人物です。
祖父には百人一首にも掲載されている「中納言兼輔」こと藤原兼輔がいます。


藤原為時は永観2年(984年)の花山天皇の時代、式部丞・六位蔵人に任じられます。
紫式部の「式部」は、この為時の官職名に由来しています。

また、為時は漢詩に優ており、その作品は『本朝麗藻』や『類聚句題抄』に25首が収録されています。
彼はその漢詩の才能を活かし、他国との交渉を行ったエピソードがあります。
長徳元年(995年)に、若狭国(今の福井県南部)に宋の商人が若狭や越前に逗留する事件が発生したのですが、その交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれています。


晩年の為時は長和4年(1015年)に三井寺にて出家しています。
寛仁2年(1018年)には摂政・藤原頼通邸の屏風に詩を献じています。
1029年に亡くなったとされていますが、これ以外の記録は分かっていません。

※参照:紫式部ってどんな人?年表や源氏物語を小学生向けに解説!

紫式部の夫である「藤原宣孝」について。


紫式部の夫は藤原宣孝という人物で、二人はまたいとこの関係にあたります。

藤原宣孝には、妻の紫式部よりも年上の長男がいたことから、この2人は年の差婚だったと考えられています。

2人は年齢が離れており、しかも宣孝には別に何人もの女性と縁があったため、2人の結婚は愛のないものだったのではと思われがちですが、必ずしもそうではなかったようです。
「源氏物語」は、紫式部が夫に先立たれた寂しさを紛らわせるために書いたという説も残されています。


源氏物語の主人公である光源氏は、複数の実在の人物からそれぞれ優れた特徴を持ってきて源氏の人物像を作り上げていると考えられています。宣孝もその一人で、御獄詣で派手な衣装で詣でた有名なエピソードを持っており、大胆なこと、人をあっと驚かせることを好んだ性格が、源氏の堂々とした押し出しのいいところを伺わせています。

藤原宣孝の性格は、人前にしゃしゃり出て自己をアピールすることが苦手だったとされる紫式部とは正反対だったと言えそうです。式部はそのような宣孝に惹かれたのかもしれませんね。

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紫式部の子供である「大弐三位」について。


紫式部は、夫である藤原宣孝の間に子供を一人設けています。
本名を藤原賢子と言うのですが、百人一首の58番目に掲載されている「大弐三位」という名前の方が有名でしょう。

大弐三位は、平安時代中期の女流歌人で、恋をテーマにした歌も数々の勅撰集に残されています。母親の紫式部才能をひきついで、魅力的な女性だったのかもしれません。恋愛の駆け引き上手な部分をうかがい知ることができる歌なども数多く残されています。


彼女は1017年頃、母の後を継ぎ一条天皇の后彰子(しょうし)に女房として仕えます。当時18歳でした。1025年には、親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、乳母も任されています。

結婚歴としては、関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚、一女をもうけます。
1037年には高階成章と再婚し、翌年に高階為家と他一女をもうけています。

1054年には、後冷泉天皇の即位の年に従三位に昇叙、夫・成章は大宰大弐に就任しています。
大弐三位」という名称は、この2つの官職名を組み合わせたものだとされています。

大弐三位は高齢になっても、宮廷歌人として活躍した記録が残されています。彼女は当時としては長寿の80歳まで生き、幸せな人生を歩んだとされています。

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紫式部の家族関係についてのまとめ


紫式部の父親である藤原為時は、平安時代中期に歌人・漢詩人として活躍した人物です。

また、紫式部の夫は藤原宣孝という人物で、彼は源氏物語の主人公光源氏のモデルの一人とされ、紫式部から愛されていたようです。この2人の間に生まれた子供である大弐三位は恋愛の歌を数多く残している事で有名です。


ちなみに、以下の記事ではライバルとされる清少納言の家族について解説しています。興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:清少納言の父親の清原元輔とは。2人の夫とその子供について