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毛利元就と言えば、自らの息子たちに説いたとされる「三本の矢」の逸話が有名ですね。

この逸話によって、元就は正室との間に生まれた3人の息子たちに兄弟の結束の重要性を示しているのですが、側室との子供たちの扱いはぞんざいだったとも言われており・・・?


実際、毛利元就は一体どのような性格の持ち主だったのでしょうか。
また毛利家の家紋や、用いていたとされる2種類の兜についても解説します!
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毛利元就はどのような性格だったのか?


毛利元就と言えば、幼くして両親を亡くし、一時は父の遺産や地位まで家臣に奪われ、謀反を起こした弟を成敗するといった悲惨な過去の持ち主でした。幼い頃は貧しくみなし子として過ごした時期もあったと言われています。

そんな元就は、一体どのような性格の持ち主だったのでしょうか。

堅実な性格が稀代の智将の基盤となった?


毛利元就と言えば、策謀家として名を馳せた祖先・大江広元の才能を受け継ぎ、200以上もの戦に出陣して稀代の智将と呼ばれるようになるのですが、調略によって勝つことが最大の勝利と考えており、派手な戦い方は好まなかったとされます。厳島の戦いの前に、陶晴賢とその重臣、江良房栄を仲違いさせて殺させた事は有名ですね。

つまり、元就は堅実さを求める性格だったのでしょう。この点は、子供たちに「天下統一を目指すのではなく、毛利家を維持することに努めよ」と言い含めた事や、筆まめと称される程多くの手紙が残っている事からも読み取れます。

愛妻家である一方、子供たちには明確な序列をつけた


また、1997年に放送された大河ドラマ「毛利元就」の影響から、元就の性格と言えば愛妻家な面をイメージされる方もいると思います。正室、妙玖が亡くなった後はショックのあまり部屋に3日も引き籠もったという逸話が残されています。夫婦仲はとても良かったようで、彼女の生前に元就は側室を一切持たない程でした。

その一方で、元就は冷酷な一面を持っていた側面もあります。元就には合計で9人の男子がいたのですが、側室との間に生まれた子供に対しては「虫けら」と呼び、妙玖との間に生まれた子供たちとの間には明確な差をつけていました。

ただ、優秀であれば重く用いるようにも言い含めており、四男の穂井田元清は長府藩、五男の毛利元秋と八男の末次元康は厚狭藩、七男の天野元政は右田藩の祖になっています。

気配り上手とお酒にまつわる元就のエピソード


『吉田物語』という書物には、家臣や周囲の国人、あるいは身分が低い者に元就がニコニコとして酒や肴を振る舞ったという、いわば気配り上手なエピソードが記されています。ただし元就自身は下戸であり、相手が酒を飲めないと答えた場合は「酒ほど悪いものはない」と答え、かわりに餅を与えたのだとか。

ちなみに元就の父と兄は、共に酒が原因で亡くなっています。この点から、長男の隆元にも酒でストレス解消をしないように言い含めており、元就の気苦労が伺えます。

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毛利元就の家紋「一文字三星紋」の由来とは?


毛利元就の家紋は「一文字三星紋」と呼ばれるものです。

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漢字の一文字の下にある三つの黒点は、オリオン座の真ん中に直列する三つの星を表しています。この3つは上から「大将軍星」「左将軍星」「右将軍星」と言い、これらは総称して「三武星」もしくは「将軍星」と呼ばれており、武家の家紋として好んで多く使われていました。

また、一番上の「一の字」には、相手に打ち勝つという意味が込められています。
この図案は、元就の家流である大江家が祖とする阿保親王が死後に最も高い位とされている「一品」という品位を賜った事にちなみ、同時にオリオン座の三つ星と掛け合わせたものではないかと言われています。

元就の死後、毛利家が長州藩主となってからも「一文字三星紋」は代々使用されてきました。
ただ、「一」の字を角字や筆書体にするなど微細な違いによって、本家と分家との違いを表していたと言われています。

毛利元就の兜について解説。縦長の兜は使っていたの?


元就が実際に使用していた兜は「金色の三つ鍬形」というもので、別府にある毛利博物館に所蔵されています。

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この「金色の三つ鍬形」兜は国指定の重要文化財になっており、子供の日の兜飾りで使用される事も珍しくありません。大河ドラマ「毛利元就」でも中村橋之助さん演じる元就はこの兜を被っていたので、見覚えのある方も少なくないと思います。


その一方で、毛利元就の兜と言えば、人気ゲーム「戦国BASARA」で元就が被っている兜を思い浮かべる方もいるかと思います。

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この兜、あの緑色と先端がカーブを描いたような形から、一部では「オクラ」とも呼ばれています。そこから毛利元就自体をオクラという愛称で呼んでいるプレーヤーもいるようですが・・・

ただ、元就が実際にあのような兜を使用していた可能性は低いと考えられます。
戦略家として名高い元就が自身の力を強調するために、戦の最中にあのような奇抜で目立つ色の兜を被っていたとは考えにくいでしょう。また水軍の強さでも有名な元就が、海風の強い海上でこのような兜と使用するには利便性に欠けていたのではという話もあります。

その一方で、長くて先端が折れた「長烏帽子兜」というものは存在します。有名なところでは加藤清正などが被っていたとされていますが、このように奇抜な兜が流行り出したのは戦国時代末期と考えられています。元就がこのような兜を絶対に用いていたとは言いがたいですが、室町時代末期~戦国時代初期に活躍した元就が使っていた可能性は低そうです。

そういった点からも、ゲームといえどもかつて大河ドラマの主役ともなった智将・毛利元就をオクラと呼ぶのは少々罰当たりな気もするような・・・(苦笑)

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この記事のまとめ


毛利元就の性格や家紋、用いていた兜についてご紹介しました。

元就は、子供や家臣に対して天下取りよりも一族の繁栄を重視するように言い含めたとされています。後を継いだ輝元によってその領土の多くは失われてしまったものの、結果として長州藩、山口県からは数多くの志士や内閣総理大臣が輩出されているため、ある意味で毛利家は関ヶ原の戦いの250年後に改めて天下を取ったのではないかと、個人的にはよく考えてしまいます。

その毛利輝元の動向や事跡などを以下の記事で解説しているので、興味があればご覧になってみて下さいね。

※参照:毛利輝元の関ヶ原の戦いや大坂の陣での動向とは。実は有能だった?