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小学生の歴史に必ずでてくる源頼朝(みなもとのよりとも)という人物ですが、一体どのような人だったのでしょうか。

このページでは、源頼朝のプロフィールや年表について、小学生向けにわかりやすくまとめてみました。

また、頼朝が日本の歴史に与えた影響についてもご紹介します。
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源頼朝のプロフィールについて


まずは源頼朝のプロフィールを小学生向けに解説します。


源頼朝は1147年に、武士の源義朝と、熱田神宮の神職藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘とのあいだにうまれました。その後、父親の源義朝は平氏との戦って負けてしまったので、まだ子供だった頼朝は伊豆に流されてしまいました。

1180年になると、頼朝は関東で仲間をつのり、弟の源義経と協力して平氏を滅ぼしました。
しかし、義経とは仲が悪くなり、頼朝はとうとう義経まで滅ぼしてしまいます。


そして1192年、頼朝は鎌倉幕府をつくり、日本で初めて武士による政治を行います。頼朝が鎌倉で幕府をつくるまえは、政治の中心は京都にあって、天皇や貴族が政治をおこなっていました。
しかし、頼朝は政治の中心を鎌倉にうつした事で、日本では600年の間、武士が政治を行っていく事になります。

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源頼朝の年表を小学生向けに解説!


次は源頼朝の年表について、小学生でもわかるように解説します。

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・1147年
源義朝の子どもとして生まれる。


・1159年
平治の乱がおこるが、平氏の平清盛(たいらのきよもり)に敗れる。
頼朝の父、源義朝が殺される。

※参照:平清盛と源頼朝の違いや性格を比較。もしも戦いがあったら?


・1160年
源頼朝は神奈川県の伊豆(いず、今の静岡県)に流される。


・1180年
平氏をたおすため、兵をあげる。
石橋山の戦いで平氏軍に負ける。
富士川の戦いで平氏軍に勝つ。
侍所(武士をまとめる役所)をおく。


・1184年
弟の源義経が平氏と戦い、京都から平氏を追いはらう。
政所(まんどころ、政治を管理する役所)をおく。


・1185年
源義経が壇ノ浦の戦いで平氏をほろぼす。
仲が悪くなった義経を討つことを命じる。
地頭(年貢のとり立てを行う)と守護(地頭の見はり役)をおく。


・1189年
東北へ逃げていた源義経が、打ち取られる。

※参照:源義経ってどんな人?年表や源頼朝、弁慶との関係について!


・1192年
征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く。


・1199年
源頼朝がなくなる。(53才)

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源頼朝が生きた時代は、貴族から武士へ政治の力が移っていく時期です。当時は、源頼朝や義経の「源氏」と、その敵である平清盛らの「平氏」が争っていたのですが、頼朝は平氏との戦いに勝って鎌倉に幕府という武士を中心とした政治のしくみを作りました。

以下では、頼朝が日本の歴史に与えた影響について、もう少し詳しく見ていきましょう。

源頼朝が日本の歴史に与えた影響について


源頼朝が日本の歴史に与えた影響がもっとも大きいと思われることは、京都において天皇や貴族中心の政治から、武士が中心になって政治をするしくみを作ったことです。

頼朝は日本全国、に年貢(今の税金)の取り立てを行う地頭(じとう)と、その地頭をチェックする守護(しゅご)と呼ばれる人をおいて、鎌倉を中心に全国をおさめました。

また京都が政治の中心だったころは、たくさんの人やものが京都だけにあつまっていました。
しかし、頼朝が関東地方の鎌倉に幕府を開いたことで、あたらしい文化や情報が鎌倉にも集まるようになります。地方である鎌倉に政治の中心をおいたことは、鎌倉を中心とした関東地方の発展のきっかけにもなりました。

鎌倉幕府は、頼朝がなくなった130年後に滅びます。しかし、その後にできた室町幕府や江戸幕府は、鎌倉幕府の仕組みを参考にして、武士による政治のしくみを発展させていきました。

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この記事のまとめ


源頼朝のプロフィールや小学生向けの年表についてご紹介しました。

源頼朝は、平氏と源氏の存在によって混乱していた世の中を平定し、武士の世の中の基礎をつくりあげた人物です。平安時代までは、京都の貴族が政治や文化の中心でしたが、頼朝が鎌倉に幕府を置いたことで、関東地方にも新しい文化や経済の流れが生まれました。この後に続く室町・江戸時代にいたるまで、長い間、武士が政治をおこなう基礎をつくった、新しい時代を切り開いた人といえるでしょう。


なお、以下の記事では頼朝のライバルである平清盛について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:平清盛ってどんな人?年表や源平合戦を小学生向けに解説!