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福島正則加藤清正って、豊臣家の家臣として活躍した事は知ってるんだけど、その違いを聞かれるとイマイチなよく分からないんだよね…という方は多いと思います。

思い当たる節はありませんか?


そこでこの記事では、何かと比較されがちな福島正則と加藤清正のの違いを5点ほど、ご紹介したいと思います!
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主君、豊臣秀吉との血の繋がりの濃さが違う


福島正則と加藤清正の違いとしてまず挙げられるのが、主君である豊臣秀吉との血の繋がりの濃さです。秀吉の母親、大政所と正則、清正の母親が親戚に当たるのですが、その関係の深さによって秀吉との血の繋がりの濃さが異なります。

まず福島正則ですが、母親が秀吉の叔母なのです。つまり正則と秀吉は従兄弟にあたり、血の繋がりも非常に濃い関係にあたるんですよね。

一方の加藤清正も秀吉の親戚に当たるのですが、明確な事は分かっていないようです。加藤清正の母親と秀吉の母親は従姉妹であったとも、あるいは「遠い親戚」という関係であったとも言われています。

※参照:豊臣秀吉の家系図を簡単にわかりやすく解説!

豊臣政権における役割が違う


福島正則と加藤清正は、共に「賤ヶ岳の七本槍」として前線で戦った武将というイメージが強いのですが、実は豊臣政権におけるこの2人の役割は全く違っていたのです。


まず福島正則ですが、彼はイメージ通り前線で戦いまくっていた武将でした。

賤ヶ岳の戦い以外にも山崎の戦いや小牧長久手の戦い、四国、九州征伐や小田原征伐など、秀吉が天下統一をする過程の戦いに数多く参加し、その最前線で戦うことで彼の天下取りに大きく貢献しました。


一方の加藤清正ですが、行政官僚としての顔が見られます。

清正も正則と同様、秀吉が天下統一を進めう過程でこれらの戦いに参加しているものの、その役割は秀吉の警護や後方支援といったサポート役が中心だったりします。他にも、秀吉の領地を代官として治めるなどの官僚としての役割を多く果たした事に功績があるのだとか。実際、清正の政治家としての手腕は非常に優秀で、領地の肥後国(今の熊本県)での実績は非常に良好だったそうです。

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関ヶ原の戦における対応が違う


関ヶ原の戦いにおいても、福島正則と加藤清正の対応には違いが見られます。


まず福島正則ですが、上と同様、東軍の先方としてその勝利に大きく貢献しています。

また、秀吉に仕えた武将の中で真っ先に家康に従う事を表明したのも正則でした。正則が家康に従ったことをきっかけに、多くの大名が東軍に着いたことも、関ヶ原の戦いで家康が勝利をおさめた1つの原因と言えるでしょう。


一方の加藤清正ですが、実はこの時領地である肥後国で謹慎中でした。

なぜ謹慎していたのかと言うと、その前年に起こった薩摩(今の鹿児島県)の島津氏の内紛に、清正が関わっていた事が当時この内紛を調停していた家康の怒りに触れたためだと言われています。こうした事態から、清正が西軍に付くのでは?と家康は一時考えたようですが、結果として清正は東軍に加わり、黒田官兵衛と共に九州地方の西軍の勢力を破ることに貢献しています。

改易されたのが自分か、それとも息子かの違い


関ヶ原の戦いの後、福島正則も加藤清正も50万石の大大名になるのですが、その後、江戸幕府によって福島家も加藤家も改易されてしまいます。ただ、福島正則が自身が改易を受けた一方、加藤家は清正の長男、加藤忠広が改易を受けたという違いが見られます。

福島正則は1619年、広島城の無断改築を咎められ改易され、その後は長野県の高井に転封し5年後に亡くなっています。一方の清正は1612年に亡くなり、その21年後の1632年に加藤家は改易されています。

死後の評判が違う?


福島正則と加藤清正の生前の違いについて紹介してきましたが、この2人はその死後の評判が全く違う思わざるを得ません。


まず福島正則ですが、晩年領主を務めた長野県高井の領民からの評判は良くなかったようです。

そして、その死後も領民から呼び捨てにされるなど、悪い評判は続いたようです。正則はこの地で治水工事や新田開発を行うなのの功績を上げているのですが、それにも関わらず評判が悪いという事は、よほど領民から嫌悪感を抱かれていたのでしょう。


一方の加藤清正ですが、死後はまるで神様扱いです。

加藤家の改易後、熊本県城に入った細川家は清正に対する畏敬の念を表すために彼の位牌を掲げながら入城したと言われています。また、清正の死後125年が経過すると、その命日には参拝する客も増え、また彼らに対する商売も盛んに行われるなど、熊本の城下町は賑わいを見せたそうです。清正人気は幕末を経て、現在でも続いています。

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この記事のまとめ


福島正則と加藤清正の違い、理解していただけましたでしょうか。

・秀吉との血の繋がりの濃さ
・豊臣政権における役割
・関ヶ原の戦いにおける対応
・改易されたのが自分か息子か
・後世の評判



年齢も仕えた主君も共通している2人ですが、こうした挙げたような違いも見逃せません。

福島正則は、秀吉との血の繋がりの深さにも関わらず、自身が改易された事が後世での悪い評判に繋がっていると思います。一方の加藤清正は、豊臣政権において若い頃から治世で功績を上げていた事が、領国、肥後での政治に活かされ、それが現在でも続く清正人気の根本にある気がします。


ちなみに以下の記事では、福島正則や加藤清正などの「賤ヶ岳の七本槍」について解説しているので、興味があればご覧になってみて下さい。

※参照:賤ヶ岳の七本槍のメンバーまとめ!その後大名になれた者は?