戦国武将で本多という姓を聞くと、大半の人が徳川家康に仕えた“本多忠勝”を思い出すのでは?しかし、家康に仕え活躍した“本多”は他にもいます!家康の参謀・本多正信です。

この正信には、生前から様々な評価があるようです。そこで、彼が仕えた徳川家康、共に家康へ仕えた武将達、そして正信が家康の元を離れ仕えたことがあるという、松永久秀の観点で見ていきましょう!

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本多正信に対する同世代の武将からの評価とは?


まずは本多正信と共に家康に仕えていた武将達の観点で、正信のことを見ていきましょう。

……これがまぁ、ものすんごく、ものすんごく評判が悪かったようです!本当にものすごく!!
徳川を離れて松永久秀に仕えたこともあり(後述します)、奸臣(簡単にいうと、悪い家臣という意味)呼ばわり……。あちこちで悪口ばかり言われていたみたいです。

家康の側近として功績を立てた徳川四天王の一人、榊原康政は、正信を「腸の腐ったやつ」と言っていたそうです。「腹黒い!」というのは今でも使われる悪口だと思いますが……「腸の腐ったやつ」……。これはもう「腹黒い」なんてかわいく聞こえてしまうほど、ドギツイ一発!だと思います。私が言われたらどうだろう……と考えてみましたが、それこそ腸が「ウッ!」としそうになりました(笑)

「腸の腐ったやつ」だなんてドギツイ一発をもらいつつ、正信は同じ本多一族からも痛烈な批判をされています。榊原康政と同じく徳川四天王に名を連ね、数多くの戦場で多く活躍し家康を支えた本多忠勝は「(正信は)腰抜け」「同じ本多一族でも、自分とは全くの無関係」などとまで言っていたそうです。身内だからこその厳しい言葉でもあるかもしれませんが、こちらもやはりドギツイですね……。身内だからこそ言われて「嬉しい!」というものと、身内だからこそ言われて「悲しい……」ということがあると思うので、正信はどう捉えたでしょう……。これも自分だったらと考えると……言われたくないですね(笑)

※参照:本多忠勝の父親はどんな武将?2人の妻やその子孫について!


さて、同じ主君に仕える仲間はおろか、身内からもここまで批判されているところを見ると、共に家康に仕えた武将達からしての正信は「奸臣だ!」という評価が多かったようですね。とすると、正信は“悪いヤツ”なのでしょうか。

次は正信が仕えた主君の二人の観点で見ていきましょう。

本多正信と徳川家康との関係、どのように評価されていた?


正信は徳川家康の抱える鷹匠(鷹狩で使う鷹を扱う人のこと)だったのですが、そこから家康の参謀にまでなりました。大出世!前の項目で、正信は家康の元を離れ、松永久秀に仕えたことから「奸臣」と呼ばれていたと書きましたが、その後に正信は家康に許され、また臣下へと戻りました。

さて、共に家康に仕える武将達からは「奸臣」と呼ばれた正信。離れたことを許しはしましたが、家康から見て、正信とはどんな存在だったのでしょうか?

家康は正信を参謀として重用しただけでなく、なんと“”とまで呼んでいたようです。
更に、「俺の友達だからオッケー!」ってことなんでしょうか?刀を所持したままの状態であれ、寝所への入室を自由に許していたそうです。……これはもう友達どころか“大親友”と言っていいですね。刀を持って寝室への入室を許すというのは、信頼関係がなければできないですよね、戦国時代ですから。家臣だとしても、謀反を企んで寝首を……みたいなことだってありえます。その中で、「寝室?あぁ、刀持ってても自由に出入りしていいよ~」なんてなかなか言えません。

更にこの二人の“大親友”っぷりの分かるお話があります。
なんと!「正信が何を言っているのか、さっぱり分からん」と他の人には理解できないことを、家康は理解できたらしいのです。テレパシー?(笑)

これらのことから分かるように、家康は正信を深く信頼し、そして理解していたのが分かります。それは家康のために数々の献策をし、期待に応えてきた正信にも同じことが言えるのではないかと思います。家康にとっての正信は、信頼できる家臣であり“大親友”。家康から見た正信は、“いいヤツ”だったように思います。

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本多正信と松永久秀との関係。どのように評価されていた?


本多正信が松永久秀に仕えていたことがあるというのは、これまでちょこっと触れてきましたが、ここで詳しく見ていきましょう。

※参照:松永久秀の家紋や子孫について解説。織田信長からの評価は?


正信が久秀に仕えていたのは、家康の三大危機の内の一つ、三河一向一揆の後です。
一向宗の門徒、反家康勢との戦いです。どうして“三大危機”って言うほどピンチなのか?当時の家康、そして彼が治めていた三河国の事態はとても深刻でした。

「犬のように忠実」などと揶揄するような表現であれ、家康の家臣団の結束力の高さは評価されていました。しかし、その半数が一揆方で参加したのです。正信もその内の一人でした。

一揆は家康が優位に立って収束、和議を結んで一揆は解体となるのですが、そこには門徒側についていた武士の中に「主君の元へ戻りたい」という者が多くいたこともあります。そして家康はそのような家臣達を寛大な心で受け入れ、家康家臣団の結束力はより強固なものとなりました。
しかし……が、その中に正信はいませんでした。正信は出奔、つまりは逃げてしまったんですね。「一度裏切ってしまったから……」と後ろめたい気持ち、「許してもらえなかったらどうしよう……」という不安があったのかな?と思います。

そして正信は松永久秀に仕えることとなるわけですが、久秀から見た正信とはどんな人物だったのでしょうか?

正信は松永久秀のもとでとても重用されます。鷹匠から家康の参謀にまでなった人ですから、非常に才覚に恵まれた人だったと想像できますね。

実際、久秀は正信のことを高く評価しており、「徳川の侍を見るのは決して少ないわけではないが、多くの者は武勇に偏っている。しかし正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」とべた褒めしています。剛でもなく柔でもないというのは、強いだけでも弱いわけでもない。卑にあらずというのは、そのまま「価値が劣る」「下品」という風に解釈するとして、「非常の器である」のです。並みの器の持ち主ではないと言っているんですね。

発言からして久秀から見た正信は、“いいヤツ”でも“悪いヤツ”でもなく、単純に「ものすっごいヤツ」という感じでしょうか。

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この記事のまとめ


本多正信に対する評価ですが、

・同世代の武将:主君の元を離れ逃げた」という悪い評価
・徳川家康:信頼できる家臣であり、友人である」良い評価
・松永久秀:「ものすごいデキる男」という良い評価


ということになりますね。


色々な解釈ができるかと思いますが、鷹匠からスタートして、そこから二人の主君に大いに評価された正信。一つ言えるのは、正信はとても“才能”と“それを発揮する場所”に恵まれた男だったということではないでしょうか?

自分に備わった才能を活かすことのできる場所、その才能を認めてもらえることができれば、「腸の腐ったやつ」と言われようとも、最後の最後までやるべきこと、成し遂げたいことを全うできるのではないかな?と思いました。


なお、以下の記事では本多正信の3人の息子について解説しています。一人一人が違ったタイプで興味深いので、ご存知出ない方は一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:本多正信の3人の息子について解説。子孫はどうなった?