FireShot_Capture_155_-_上杉謙信の似顔絵イラスト_I_かわいいフリー素__-_http___www_irasutoya_com_2013_10_blog-post_12_html

戦国最強の武将は誰だったのかというお題に、毎回あがる武将と言えば上杉謙信ですね。

ただ、謙信の強さはどのような点にあったのかについてご存知の方は、そう多くはないのではないでしょうか。そもそも謙信が戦国最強と言われる理由は何故なのでしょう。

このページでは、上杉謙信の強さに迫ると共に、もしも織田信長と謙信が戦っていたらどうなったのかを検証してみたいと思います。
スポンサードリンク

上杉謙信が戦国最強と呼ばれる理由とは?


上杉謙信と言えば、「戦国時代最強の武将」と呼ばれる事も多いですよね。
それでは、謙信はなぜ戦国最強と言われているのでしょうか。

上杉謙信が初陣したのは15歳といわれ、その後亡くなるまでに70回戦場に赴き、明確に敗北したと言えるのはわずか2回(1回?)だけだったと言われています。
このうち、1566年に行われた「臼井城の戦い」は謙信の完敗だったのですが、もう一方の1561年に北条氏康との間で行われた「生野山の戦い」の方は川中島の戦いの2ヶ月後に行われた戦いであり、上杉軍の兵士はとても疲れていた状態だったそうです。

逆に、これ以外で明確な敗北を喫していない事が、上杉謙信が戦国最強とされる理由と言えるでしょう。ライバルとされる武田信玄は49回の戦いの中で11回、織田信長は23回の戦いの中で9回負けているとも言われており、謙信の強さが伺えます。

また、上杉謙信は義に篤く、戦にも大義名分を重視していました。川中島の戦いは村上義清や小笠原長時の、関東出兵は関東管領上杉憲政を助けるための戦いであり、己の利益を追求するものではありませんでした、こうした謙信の姿勢が、領土拡大のためにあらゆる手を使った武田信玄や北条氏康から見れば不気味に、そして怖く見えたのかもしれませんね。
もしも謙信が、なりふり構わず戦ったら自分たち負けるのでは…」と恐れた大名の姿勢が、形を変えて謙信最強説に繋がっていったのかもしれません。

この他には、自らを「毘沙門天の化身」と位置付けた点や、歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」における謙信の戦闘力の高さも、戦国最強の武将・上杉謙信を作り上げていったとも考えられるかもしれませんね。

スポンサードリンク

上杉謙信の実際の強さはどのようなものだったのか


それでは、上杉謙信の実際の強さはどの辺にあったのでしょうか。

「毘沙門天の化身」ともいわれた上杉謙信の強さの原点は、幼少時に預けられた林泉寺時代にありました。謙信はここで教養や兵学を身に着けると同時に、城の模型を使ってシミュレーションをする事を好んだそうです。その中で、城攻めや野戦時の軍の動かし方を学んだのが、謙信が戦国最強と言われた基になったと言えるでしょう。

こうした経験のおかげか、謙信は戦の駆け引きに優れた天才型の武将に育ちます。彼は、戦場でどのように動けばいいかが直感的に分かっていたようで、例えば第四次川中島の戦いでは武田家の海津城から煙が上がるのを見た謙信は攻撃が来ると予測し、逆に武田軍を急襲する作戦に出て、信玄の弟の武田信繁や軍師の山本勘助ら、多くの武将を討ち取っています。


この謙信の強さを支えていたのが、「越後兵」と言われる屈強な兵士たちでした。彼らは武田の甲斐兵や北条の関東兵、徳川の三河兵よりも強いとされる「戦国最強の兵士」だったと言われています。

越後兵には騎馬隊や鉄砲隊もいましたが、その主力は戦場を縦横無尽に走り回る槍兵でした。
その強さの根源は、越後国特有の環境が影響していると言われています。

米どころだった越後の田んぼは「深田」と言われ、胸のあたりまでつかりながら農作業をせざるを得ませんでした。越後兵はこうした環境のもと育ったため、足腰が鍛えられ、それが戦での強さに繋がっていったと考えられています。
もちろん、謙信と共に信濃や関東など様々な地域で戦歴を積み上げていった事も、越後兵が戦国最強の兵士と言われるようになった背景なのは言うまでもありません。

※参照:上杉謙信ってどんな人?年表や武田信玄との関係を解説!

上杉謙信と織田信長が戦っていたらどちらが勝った?


戦国最強と言われる上杉謙信ですが、1578年に亡くなります。
この前年に謙信は織田信長の家臣、柴田勝家を手取川の戦いで破ってますが、大将である信長と直接戦った訳ではありませんでした。

では、仮に上杉謙信と織田信長が戦っていたら、一体どうなっていたでしょうか。

先程も述べたように、信長はその戦いの中でいくつか敗北を経験しています。一説では信長が治めていた尾張国の兵士(尾張兵)は戦国最弱とも言われており、仮に前提条件を何も付けなかった場合、信長は謙信に完敗してしまうかもしれません。手取川の戦いの際、謙信は織田軍の強さについて「思ったり大した事なかった」と述べており、その強さの違いが伺えます。

しかし、信長の初期の領国である尾張国は石高と商業が共に盛んであるだけでなく、当時の政治経済の中心地である畿内に近いというメリットがあった事も見逃せません。こうした経済力を背景に、信長は多くの兵士を常に雇う事が出来たのです。
一方で、越後兵を含めた当時の兵士は農民から構成されており、農作業を行う時期は自宅に帰る必要があったため、常に戦える状態ではありませんでした。

こうした当時の時代背景を踏まえれば、例え謙信が長生きしていたとしても、次第に信長に押されていったのではないでしょうか。桶狭間の戦いのように信長が戦場で討ち死にしない限り、上杉謙信が織田信長に勝つ事は難しかったのではないかと思います。

スポンサードリンク

今回の記事のまとめ


上杉謙信が戦国最強と言われる理由を、実際の謙信の強さに言及しながらご紹介しました。

70回もの戦で2回しか負けていない戦歴を誇る謙信は、戦国最強の武将の1人と言っても過言ではないと思います。その強さを支えた越後兵の存在も見逃せません。
ただ、越後兵を含めた当時の兵士の多くは農作業を行う農民が中心であり、長期的に出陣ができる状態ではありませんでした。こうした点を解消する事に成功した織田信長に謙信がどう戦うかは、とても興味深いですね。

なお、以下の記事では個人で強かった戦国武将について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:戦国武将で最強は誰?個人で強かった人物を5名解説!