今川義元といえば、桶狭間の戦いで織田軍に負け、亡くなったことで有名です。
外見においても、公家風の化粧を施していたとも言われますし、馬に乗ることができず輿を利用していたと言われるほど、その評価はあまりイメージが良くありません。

得てして、評価が低くなりがちな今川義元ですが、実際は「海道一の弓取り」という異名を持つ立派な戦国大名でした。

そんな今川義元の評価について、政治、外交、軍事の3つに分けて考えてみたいと思います。

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今川義元の政治面での評価はかなり高かった?


まずは今川義元の政治面での評価について考えてみたいと思います。

義元の内政面における業績一つに、今川家の分国法「今川仮名目録」の追加法を作ったことが挙げられます。この「今川仮名目録」とは義元の父・今川氏親が制定した、東日本で最古とされている分国法です。

その中でも、義元の追加した21条は特に意味を持っており、これが今川領を幕府から完全に独立させたとも言えるのではないでしょうか。


21条の内容にはまず、室町幕府が義務付けていた、指定の公領や荘園への守護不入の拒否があります。これにより、幕府の土地の管理を今川氏自身がすることになり、国内の把握に努めていたようです。


義元の政治面での評価のポイントとして他に挙げられるのは、寄子の扶養についての記載です。これは今川氏が制定していた寄親寄子制度に関するもので、今川家の家臣団の結束強化を支えていた事で知られています。


他にも、商人の保護や流通の統制などを行っていた資料もあり、こうした事跡を踏まえると、今川義元の政治面での評価はかなり高いと言えるのではと私は思います。

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非常に優れていた今川義元の外交能力


今川義元は外交についても優れた人物でした。

1536年、今川義元が兄の玄広恵探と家督争いを繰り広げた際、義元は東の後北条氏からの支援を得る事に成功して勝利してますし、後に北条家と敵対した際も、武田家や山内上杉家と巧みに同盟を結び、数々の難局を乗り切る事に成功しています。


また、母親の寿桂尼の実家である公家のネットワークを活かして、武田晴信(信玄)が正室の三条の方と縁組を結ぶ際、その仲立ちを行った事も知られています。

※参照:寿桂尼ってどんな人?夫や女戦国大名と呼ばれた理由を解説!


そして、今川義元が重臣に置いていたのが太原雪斎という僧侶です。この太原雪斎という人物は義元の外交を語る上では彼は欠かせない存在であり、甲相駿三国同盟の立役者でもあるのです。


1554年の甲相駿三国同盟は、甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏の三国間で結ばれた同盟ですが、この同盟の発案が義元であり、働きかけを行ったのが雪斎でした。
この三国同盟により、隣接した今川、武田、北条間の戦は収まり、国を安定に導いたとは考えられないでしょうか。

また、義元は徳川家康の三河国についても、外交で傘下に治めていたということもあり、外交の能力や人を見る目が非常に優れていたのではないかと私は思います。

今川義元の軍事面での評価はどうだった?


武将として評価していく上では、軍事面についての評価も必要になってきます。

では、今川義元の軍事面での評価はどう考えるべきでしょうか。


義元による軍事政策としては、政治能力でも触れましたが、寄親寄子制度が挙げられます。
この制度によって家臣団の結束が強固なものになれば、合戦中の士気にも良い影響が出ると考えられるからです。


しかし今川義元の実際の軍略という点では、政治や外交に比べ得意ではなかったようで、外交と同じく、太原雪斎の力が大きかったと評価されることもよくあります。
例えば、1548年の小豆坂の戦いでは、三河国に進出してきた織田信秀を今川家は破っているのですが、この時今川軍を指揮していたのは雪斎でした。


また、1536年から1545年に起こった河東の乱では、義元は北条家に富士川より東の領土を一部奪われるものの、最終的には奪還する事に成功しています。

実際、義元が亡くなった桶狭間の戦いは、雪斎が亡くなった後の合戦ですが、もし雪斎が生きていたら今川氏の衰退は無かったのではないかと考えている人も多くいます。

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この記事のまとめ


こうして今川義元の評価を検証していくと、政治、外交について他の大名を凌ぐほどの高い能力があったということが分かります。

また、軍事面の評価についても、雪斎の力が大きかったとしても、その雪斎を重臣として登用していたのは義元自身です。


桶狭間の戦い以外では決定的な負けを喫してた訳ではありませんし、寧ろ義元の人を見る目の確かさも、評価できるものではないでしょうか。今川義元の評価がもっと多様化したものになれば、関東地方の歴史も、もっと楽しく学べるのではないかと私は思います。


なお、以下の記事では今川義元が用いた2つの家紋について解説しているので、興味があればご覧になってみて下さいね。

※参照:今川義元の家紋「足利二つ引両」とは。引両紋や赤鳥紋も解説!