徳川家康といえば、知らない人はいないほど有名な武将です。
徳川の支配による江戸時代は、今日の日本の基礎となっています。


では、徳川家康の娘にはどんな人がいたのでしょうか。

家康には、亀姫、督姫、振姫、松姫、市姫という5人の娘がいました。
このうち松姫、市姫については、二人とも幼くしてなくなったそうですが、残りの3名は歴史にその名を残しています。


今回は、家康の娘の中で亀姫、督姫、振姫の3名をご紹介します。

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嫉妬深いエピソードが残る長女の亀姫


亀姫は徳川家康の長女です。
母は瀬名姫ですが、駿府で産まれ、今川家の人質となっていました。

1575年の長篠の戦いで功績を上げた奥平信昌と、同年に結婚。
家昌、家治、忠政、忠明、千姫という5人の子供を産んでいます。

また、孫で家昌の子供である奥平忠昌が宇都宮から下総に転封されると、その代わりに宇都宮へ入城した本多正純が失脚するきっかけとなった「宇都宮城釣天井事件」の黒幕が亀姫であったという説も残っています。本当か否かは分からないものの、家康の長女として、亀姫の影響力が高かった事を示す逸話だという気がしますね。

※参照:本多正信の3人の息子について解説。子孫はどうなった?


この他にも、亀姫は嫉妬深い性格だったと言われており、奥平信昌には側室がおらず、侍女を12人殺めたとされています。彼女たちの霊を祀った「十二相神」というお墓が、夫である信昌の転封先である岐阜県の加納城にあります。

自分の側近に八つ当たりしてしまうなんて恐ろしい性格ですね・・・

亀姫は同地では「加納の方」「加納御前」と呼ばれており、1625年に65歳で亡くなりました。
家康の娘の中では、最も長命であったと伝わっています。

次女の督姫も姉と同様嫉妬深い?


督姫は、徳川家康と最初の側室、西郡局(にしごおりのつぼね)との間の娘です。北条家との和睦のため五代目当主の北条氏直の正室として嫁ぎ二女をもうけました。

※参照:北条氏直の系図がすごい理由とは?人物像や評価にも迫る!


小田原征伐後には、家康のもとに戻りました。氏直が赦免されたときには、彼とまた一緒になりましたが、直後に氏直は病死してしまいました。

その後、1594年に秀吉を仲人として池田輝政と再婚します。輝政との中は非常に良かったようで、五男二女をもうけました。

その一方で、督姫は実の子でない輝政の長男の利隆を憎んで毒まんじゅうで殺害したという説も残されています。これは利隆が33歳の若さで亡くなった事から噂になったと思われるのですが、その真偽は定かではありません。

とは言え、噂が立ってしまっていることから、督姫の性格は姉の亀姫と同様に嫉妬深かったという気がするのですが…実際はどうだったのでしょうか。

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三女の振姫はもっとも家康に似ている?


振姫(正清院)は、徳川家康と側室の良雲院の間の娘で、三女です。

豊臣秀吉の命によって蒲生秀行と結婚し、二男一女を授かります。この蒲生秀行はお家騒動が原因で会津(92万石)から宇都宮(18万石)へと処分されているのですが、関ケ原の戦い後に会津に復帰しています。
この裏では、振姫が父親の権力を使ったとも言われており、また秀行は家康の娘を妻としている事から徳川家の一門として扱われるようになりました。

しかし、秀行は1612年に30歳で亡くなってしまいます。振姫は跡を継いだ長男の忠郷の後見をしていましたが、家老である岡重政との間で対立が発生するなど、蒲生家は安定しませんでした。
その後、忠郷とその弟で次男の忠知は共に若くして亡くなっており、蒲生家は断絶しています。


1615年、振姫は徳川家康の命令によって浅野長晟と2度目の結婚をします。振姫は長晟との間に後の広島藩主となる浅野光晟を産みますが、その2年後に38歳で亡くなってしまいました。
ただ蒲生家と異なり、振姫の浅野家側の子孫は江戸時代を通して残りました。


振姫は息子の後見をし、実権を握っていただけに、5人の娘の中で父親の能力を最も受け継いだ人物だったのかもしれません。

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この記事のまとめ


徳川家康の娘で成人したのは長女の亀姫、次女の督姫、三女の振姫の3名です。
亀姫は奥平信昌、督姫は北条氏直と池田輝政、振姫は蒲生秀行と浅野長晟に嫁いでおり、それぞれの嫁ぎ先で重要な役割を果たしています。

特に督姫が嫁いだ池田家は江戸時代、一族を通して100万石を領したとも言われており、いわゆる「家康の娘」ブランドの効果はかなりあったのでは…と個人的には思っています。