北条氏直は、1562年に誕生し、1591年に没した戦国時代の武将です。
小田原城、相模に勢力を広げていた北条家で最後の当主を務めていました。

この北条氏直ですが、具体的にどのような人物だったのでしょうか。
その系図や能力について、深掘りして解説していきたいと思います!

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北条氏直の系図がサラブレッドすぎる!


歴代の北条家当主と比べるとあまり実績を残せていない気がする北条氏直ですが、その系図を見ると、当時の名だたる戦国武将の名前がいたる所に出てきます。

北条氏直は、祖父が北条氏康です。武田と今川との外交政策に成功し、領地の内政も積極的に行っていた人物ですね。

そして北条氏直の母は、武田信玄の娘・黄梅院。

つまり、彼は、戦国最強と言われている武田信玄、北条家の全盛期を築き上げた北条氏康の血を引く人物なんです。


また、駿河国を信玄に奪われた今川氏真を養父としている事も見逃せません。血の繋がりはないものの、あの「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元とも繋がっていることが分かります。実際、今川氏真の妻である早川殿は氏直の伯母にあたる人物にあたります。

更には徳川家康も出てきます。北条氏直の妻は家康の娘の督姫。この夫婦の間には女の子が2名産まれていることや、氏直に側室がいなかった事を踏まえると、氏直と督姫は仲が良い夫婦だったのかなという気がします。

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北条氏直の北条家当主としての評価とは?


北条氏直は1580年に家督を継ぎ、北条家の当主となりましたが、実権は隠居した父親が握ったままでした。

北条氏は、秀吉に攻め込まれてしまいますが、最後には、北条氏直は自分の命と引き換えに家臣の命を守ろうとしています。この点については秀吉からも賞賛されており、妻が家康の娘である督姫であったという事情からも助命が許されています。


また、天下統一を進めていた秀吉の実力を把握していたり、配下の猪俣邦憲が真田昌幸の名胡桃城を奪取した際はその取りなしを家康に依頼するなど、他国との力関係を見る目はある程度はあったのではないかと思います。

※参照:小田原征伐の原因と真田昌幸の対応、その後の真田家の所領は?



その一方で『北条記』という資料は、北条家当主としての氏直をある程度評価しつつも、その体質について以下のように言及しています。

五世の氏直君はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、みずから裁決せず、人まかせにするあやまちをおかしたために、ついにその家を失うこととなった
※参照:北条氏直(Wikipedia)


実際、氏直は1591年に30歳の若さで亡くなっています。仮に秀吉に従っていたとしても、彼の虚弱体質は当主としての務めを果たすにあたって、何かと不便であったという気もします。

北条氏直の武将としての評価は?天正壬午の乱の結果が痛い?


また、北条氏直の武将としての評価はどのようなものだったのでしょうか。

1577年に北条氏直は元服をし、数々の戦を経験してきました。
その中でも関東地方でもっとも大きな戦と言われる神流川の戦いがあります。

織田家の滝川一益との戦で、本能寺の変後に北条氏直は攻め込みました。
一度は、敗れてしまった北条氏直ですが、再度体制を整えたうえで勝利を収めています。

しかし、徳川家康との戦である天正壬午の乱では真田昌幸や木曽義昌の裏切りもあり、思うような結果は得られませんでした。特にこの時、真田家に沼田城を奪われた事は、後の小田原征伐に繋がることにもなるため、氏直の武将としての評価を落とす一因になっていると考えられます。

ただし、この天正壬午の乱の後、氏直は下野や常陸へ出兵しており、その中で佐竹義重や太田資正、結城晴朝らとの戦いを優勢に進めるなど、武将、軍人としては全く無能だった訳ではない一面もあります。

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この記事のまとめ


北条氏直の系図を見ると、祖父の北条氏康をはじめ、武田信玄や今川義元、徳川家康といった戦国時代の名だたる武将が出てきます。武将としての評価も決して悪いわけではない氏直ですが、仮に秀吉に滅ぼされていなかったとしても、虚弱体質という点は当主としての評価に響いたかもしれませんね。

仮に生きていた場合、氏直は伯耆一国を与えられる予定だったと言われてます。この点からも、氏直は秀吉からある程度の評価は受けていたのでは…?といった事を、個人的には感じます。



なお、以下の記事では小田原征伐における秀吉の行動について解説しています。源頼朝とのエピソードやその後の宇都宮仕置にも触れているので、興味があればご覧になってみて下さいね。

※参照:秀吉と小田原攻め。一夜城や源頼朝像との対話、宇都宮仕置とは?