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姫路城は1993年に世界遺産に登録され、城郭建築の最高峰として現在でも人気の高いお城です。豊臣秀吉や黒田官兵衛といった名高い戦国武将にまつわる城としても知られています。

そんな姫路城は一体誰が築城し、どのような歴史を辿ったのでしょうか。
最後の城主はどんな人物だったのかも気になりますね。

この記事では、姫路城とゆかりの深い人物にスポットを当てながら、その歴史を簡単に追ってみたいと思います。
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姫路城を築いた人物と築城の理由とは?


そもそも姫路城は、どの人物がどういった経緯で築いた城なのでしょうか。

この城は、1333年の元弘の乱(後醍醐天皇と鎌倉幕府の戦い)に応じて、後醍醐天皇に味方するために挙兵した播磨国の守護・赤松則村が姫山に砦を築いたことが始まりだと言われています。その後、この地に本格的な城が築城されたのは1346年のことで、則村の息子である赤松貞範が築城し、当初は「姫山城」と呼ばれていました。

姫路城を築城した人物である赤松貞範は、1349年に庄山城を築城して本拠を移すまでの約3年に渡って、初代姫路城城主としてこの城に居住しました。

室町時代の姫路城の城主について


その後、初代姫路城主である赤松貞範は新たに庄山城を築いてこの城に本拠地を移します。そして姫路城の城主には、自らの一族である小寺頼季を任命し、以後代々、小寺氏が姫路城城代を務める事になります。

1441年に起こった嘉吉の乱で、5代目城主である小寺職治が討死すると、姫路城は一時期山名氏の支配下に入ります。その後、再興が許された赤松氏が応仁の乱に乗じて山名氏より姫路城を奪還し、1467年には赤松政則が7代目城主に就任します。

その2年後には、赤松氏の居城変更に伴い、姫路城城代は再び小寺氏が務めることになりました。1545年になると、10代目城主である小寺則職が御着城に移動するのに伴い、姫路城城主には小寺氏の家臣で黒田官兵衛の祖父にあたる黒田重隆が任命されます。

以後の姫路城は、黒田重隆、職隆、孝高(官兵衛)と、3代にわたって黒田氏が城主を務めることになります。黒田孝高が14代目の姫路城主に就任したのは1567年の事で、彼はその後6年に渡って城主を務めました。

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豊臣秀吉、黒田官兵衛と姫路城


その一方で、姫路城は中国地方と近畿地方とをつなぐ要衝地である播磨に位置していた事から、当時の戦国武将によって重要視されていました。

1576年に織田信長が毛利氏攻めを開始し、その先陣として羽柴秀吉が播磨に駐留すると、播磨国内は毛利氏を支持する勢力と織田氏を支持する勢力に分裂します。織田氏の勝利により、毛利氏を支持した小寺氏は没落をしますが、小寺氏の家臣でありながら秀吉との縁故が深かった黒田官兵衛は、そのまま秀吉の家臣として仕えることになります。

1580年、播磨国の平定に伴い、官兵衛は秀吉に姫路城を献上します。
これにより秀吉が姫路城の15代目の城主となりました。

秀吉は姫路城の大改修を行い、3層の天守閣を築くなどして姫路城を近世城郭の域に押し上げます。城の名前が「姫山城」から「姫路城」に改められたのもこの頃です。そして秀吉が大坂城へ移動した後は、弟の秀長など彼の縁故の人物が2代に渡って姫路城城主を務めました。

※参照:豊臣秀長ゆかりの城について解説。竹田城、郡山城、和歌山城

江戸時代の姫路城と最後の城主である酒井忠邦について


1600年には、関ヶ原の戦いでの働きが評価された池田輝政が18代目の姫路城の城主に就任します。家康の娘婿でもある輝政は「豊臣家に縁の深い大名をけん制せよ」という家康の命を受け、1601年から姫路城の大改修を行います。約8年間に渡って改修を行った結果、姫路城は現在のような美しく、堂々たる城へと生まれ変わります。

姫路城を城郭建築の最高峰として生まれ変わらせた人物と言われる池田輝政ですが、運河の建築など、輝政の存命中には成されなかった事柄もありました。1613年に輝政が亡くなると、跡継ぎである光政が幼いことを理由に、池田氏は鳥取へ転封させられます。池田氏の後には徳川四天王の一人である本多忠勝の息子である本多忠政が入城し、大運河の建築が実現する事になります。

江戸時代の姫路城はその後、本多氏や奥平松平氏、越前松平氏、榊原氏などの譜代大名が姫路城城主を歴任します。1749年には酒井忠恭が城主に就任し、以後酒井氏が10代に渡って姫路城城主を務めました。江戸時代の姫路城城主は、徳川四天王に始まる譜代大名の家柄が務めていることから、姫路城が西国の要衝であるという性格を物語っていますね。

なお、姫路城の最後の城主は酒井忠邦という人物です。彼は江戸幕府で大老を排出した酒井家の当主で、養父にあたる酒井忠惇が新政府軍と戦った事から朝敵扱いされた姫路藩を救うため、譜代大名家という立場でありながら新政府軍と融和を図るため、献金や家臣の処分を断行しています。明治政府が行った中央集権化政策の一つである版籍奉還も、忠邦の発案によるものでした。

※参照:徳川四天王とは?その後や子孫の存在についても解説!

近世以降の姫路城の歴史について


明治以降、姫路城はどのようにして現在の姿を保ってきたのでしょうか。

姫路城は1874年に、陸軍省の所有下に入ると、この地に歩兵第10連隊がおかれたことを皮切りに、軍事施設として利用され始めます。城郭の一部が破壊される中、明治初期に起こった城郭建築保存の動きが実り、1910年には「明治の大修理」が行われました。

大正時代に入ると、軍事施設として利用されていない本丸・二の丸・三の丸を姫路市が姫路公園として整備され、一般への公開が開始されます。昭和時代の1928年には史跡、1931年には国宝に指定される一方で、太平洋戦争が勃発した際には、空襲を避けるために黒い網をかけて目立たなくしました。それでも1945年7月3日に姫路大空襲を受けてしまいますが、奇跡的に損壊を免れ、当時の姫路市民はホッとしたと言われています。

また、戦争に前後して「昭和の修理」が行われた他、1993年の世界遺産登録をきっかけに、2009年から2015年にかけては「平成の大修理」が施されました。

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この記事のまとめ


姫路城の歴史を簡単にまとめてみました。

この城はもともと「姫山城」と呼ばれていましたが、戦国時代に秀吉が城主になった頃から「姫路城」の名前で知られるようになります。江戸時代には譜代大名家が城主を務め、明治以降は軍事施設として利用されていました。

その一方で保存の動きも進み、空襲の難を逃れた後はたびたびの改修によって現在に至ります。姫路城は人々に愛され、城郭建築の最高峰として認識されてきたからこそ、今日の姿を保ってきたのではないでしょうか。


なお、以下の記事では姫路城以外の秀吉ゆかりの城について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:豊臣秀吉ゆかりの城まとめ!建築や城攻めなど解説してみた