698d29edd6581070ca6828ba3efc7288_s


豊臣秀吉と言えば、墨俣一夜城の建築伝説や備中高松城での水攻めなど「城」に関するエピソードが多い事でも知られている戦国武将です。


秀吉と関わりのある城は、再建されたものや跡地を含めて今でも日本全国でその姿を確認する事が出来る…のですが、多すぎて訳がわからなくなる事も、少なからずあると思います。


そこでこの記事では、豊臣秀吉にゆかりがある10城を厳選してまとめてみました!
スポンサードリンク

豊臣秀吉が建築した城まとめ


まずは、豊臣秀吉が建築に携わった城を5つご紹介します。

墨俣城


まず初めは墨俣城です。

墨俣一夜城とも呼ばれ、秀吉が出世する大きなきっかけになった城として有名ですね。


実際には、秀吉が一夜にして城を建築したという話は伝説らしいのですが、この時期、秀吉が木曽川沿いで水運業を営んでいた蜂須賀小六らを配下にした事は確認できるため、何かしらの働きをしたことは事実だと思います。

こうした秀吉の働きに関する話が人々の間に広がったのか、あるいは秀吉側が意図的に広めたのかは分かりませんが、彼が墨俣城近辺で行った働きは、現在も「墨俣一夜城」伝説として伝わっている事になります。

長浜城


長浜城と言えば、秀吉が浅井長政の領地の一部を与えられた際に建築した事で有名な城です。


秀吉はこの地で善政を行ったとされ、また石田三成などの近江出身者を家臣として迎え入れるなど、長浜城は彼の天下取りの土台となった事でも知られています。


後に、秀吉の家臣である山内一豊が入城するも、大坂の陣の後で取り壊され、その一部の具材は彦根城の建築の際に利用されたと言われています。現在では、復元された天守があり、地元である長浜市によって運営されています。

大阪城


3つ目は大阪城です。戦国時代ファン、秀吉ファンなら一度は訪れておきたい城ですね。

大阪城は1583年に建築が開始され、2年後の1585年に完成。秀吉および豊臣家の本拠地となり、城下町は大いに賑わったと伝えられています。豊臣家の滅亡後は江戸幕府の直轄となり、幕府の西日本支配の拠点として栄えます。

その後、たびたび火災などで天守などが破壊、損害を受ける度に改築が行われ、現在の天守は1931年に建てられたものになります。

聚楽第


4つ目は聚楽第です。

「じゅらくてい」とも「じゅらくだい」とも呼ばれている城で、秀吉が関白になった際に政務を行う場所が必要!という事で1587年に完成しました。

秀吉が関白を退いた後は、その後を継いだ豊臣秀次の居城となりましたが、1595年に秀次が切腹すると、聚楽第は秀吉によって徹底的に壊されてしまいます。

完成後、わずか8年で取り壊されれたこの城の詳細については、今でも不明点が多いのだとか。

伏見城


関白を退いた後、秀吉の隠居用の住まいとして建てられたのがこの伏見城です。

建築は1592年に始まりその4年後に完成。秀吉が亡くなった城としても知られています。


また、関ヶ原の戦いでは徳川家康の家臣、鳥居元忠が1800人の兵力でこの城を守り、西軍を足止めさせる事に成功。その2年後の1602年に家康によって再び建築され、江戸幕府初期の重要な拠点としての役割を果たしました。


その後、1623年にこの城は取り壊されてしまうのですが、1964年に再建され、今では伏見桃山城運動公園としてその姿を見ることが出来ます。

スポンサードリンク

秀吉の城攻めにあった場所まとめ


豊臣秀吉と言えば、城攻めの達人としても知られてます。

そんな彼が攻めた城を4つご紹介します。

三木城


まずはじめは三木城です。


三木城は播磨の別所氏の城として有名な城で、1578年〜80年の2年にわたって秀吉の城攻めを受ける事になります。この時、秀吉は苛烈な兵糧攻めを行い、城内に一切食料が届かない状態にしたと伝わっています。


落城後は秀吉の城となり、関ヶ原の戦いの戦い後は姫路城主を務める池田輝政の所有となったのですが、1615年に一国一城令によって取り壊される事となりました。

現在では城跡や模擬の城壁が残っています。

鳥取城


2つ目は鳥取城。この城も秀吉の城攻めを受けた事で有名です。

三木城は落城までに2年かかったのに対し、この鳥取城はわずか4ヶ月で開城しています。

ただこの4ヶ月間、城内では餓死者が現れたり、あるいは人肉を求める者が出てくるなど凄惨な状況だったのだとか。


その後、秀吉の家臣である宮部氏が入り、関ヶ原の戦い後は池田氏の居城として明治維新を迎えます。天守は既に取り壊されており、その台が現在でも残っています。

備中高松城


秀吉による水攻めで非常に有名な城です。ちなみに水攻めを提案したのは黒田官兵衛ですね。

また、城主を務めていた清水宗治の名前が非常に有名です。現在でも城跡には清水宗治を祀る碑文や首塚が残されており、当時の面影を伝えています。


戦いの後は宇喜多家の領地となったようで、関ヶ原の戦いの後で取り壊されたと言われています。現在では城の面影はなく、秀吉が水攻めの際に築いた堤防など工事の痕跡が残されています。

小田原城と石垣山城


秀吉が天下統一を実現する際に攻めた小田原城と、攻城戦の際に築いた石垣山城はセットで説明した方が分かりやすいですね。

小田原城と言えば、北条家の居城として、武田信玄や上杉謙信でも攻め落とせなかった事で知られる名城です。この城を攻め落とすため、秀吉は20万以上の兵力を用いて攻略に当たります。

その際に築いたのが石垣山城で、3万人以上の人員を動員しわずか80日間で構築されたのだとか。その際、秀吉はこの城を1日で築いたという演出を行い、北条家の戦意を喪失させたと伝わっています。このため、石垣山城は「石垣山一夜城」と呼ばれる事もあります。


その後、小田原城は家康に与えられ、家臣である大久保氏が入城。2度の大地震や明治政府により城の大部分が取り壊されており、現在ではその復元を目指そうとする動きがあります。

また、石垣山城は国の史跡となっており、歴史公園として整備されています。

スポンサードリンク

その他豊臣秀吉ゆかりの城


最後に、これら9つ以外で豊臣秀吉ゆかりの城として有名な姫路城をご紹介します。

姫路城


姫路城と言えば、大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛の居城として有名ですが、豊臣秀吉が中国征伐を行う際、黒田家が秀吉に譲った城としても有名です。


近畿と中国地方を結ぶ要地として、戦国時代では織田家と毛利家が激戦を繰り広げたほか、江戸時代になると徳川家に近い譜代大名が度々城主が入れ替わっている事も、この城が重要な拠点であった事が伺えます。


その一方で、姫路城下は城が建てられて以降、一度も戦に巻き込まれていない事でも有名です。第二次世界大戦に焼夷弾が天守に直撃したものの被害はそこまで大きくなかった事から「不戦の城」と呼ばれている事でも承知いたしました。荒れています。


また、姫路城は国宝や重要文化財として有名で、1993年には日本初の世界遺産として登録された事でも知られています。現在では様々なイベントが開かれたり、あるいは時代劇の撮影が行われるなど、多くの人に愛されている日本が誇るべき城の1つと言えるでしょう。

※参照:姫路城の歴史をまとめてみた。最後の城主は誰?

この記事のまとめ


豊臣秀吉ゆかりの城について、理解していただけましたか?

秀吉が建築に関わったもの、城攻めの対象になったもの、彼が立身出世をしていく中で居城にした所・・・このように、秀吉ゆかりの城は非常に沢山あるのが特徴です。


ちなみに、↓↓の記事では「豊臣秀吉の家紋」といったテーマについて解説しています。

豊臣秀吉の家紋の意味は?政府が使っている理由について!

秀吉が使った家紋、実は500円硬貨にも使われてたってご存知でしたか?