豊臣秀吉の秘蔵っ子である宇喜多秀家は、関ヶ原に参加した武将の中では最も長く生きました。ただ、その半数の50年間は関ケ原後に配流された八丈島で暮らしました。

関ヶ原の戦いにおいて西軍最大の軍を率いた宇喜多秀家は、関ケ原では同様に戦い、どのように敗走し、八丈島に配流処分になった後にはどういった生活をしていたのでしょうか?また、宇喜多家の子孫は今なおいるのでしょうか?

今回は、宇喜多秀家の関ヶ原の戦いでの奮戦と八丈島での暮らし、そしてその子孫についてご紹介します。

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宇喜多秀家は関ヶ原の戦いをどのように戦ったのか


宇喜多秀家は、関ヶ原においては西軍最大の軍勢である17000人を率いて、西軍の副将として石田三成らと共に徳川家康を断罪する檄文を発して、石田三成や島津義弘らと共に西軍の主力として戦いました。

宇喜多勢が対峙したのは、東軍最強ともいわれた同じ豊臣秀吉の子飼いの武将である福島正則の軍勢6000人でした。その戦いは、『関ヶ原軍記大成』に「福島家の旗と、宇喜多家の旗が双方とも二、三度退却した」と記述されるほどの一進一退の戦いを繰り広げ、関ヶ原の戦いにおいて最も激戦だと言われる戦いとなりました。

※参照:福島正則と加藤清正の違いについて5点ほどまとめてみた


ただ、西軍で戦っていたのは、秀家や三成を除けば、小西行長と大谷吉継とその傘下が各々で戦っているだけで、横の連携がとれておらず、九州の雄といわれた猛将島津義弘が率いた島津軍は一切戦わず日和見に徹していました。

それでも高い士気によって、西軍は一時期優勢でしたが、秀家と同じ秀吉の子飼いの小早川秀秋の裏切りにより、一気に優勢は逆転して敗走してしまいます。その際に、秀家は、秀秋の裏切りに激怒し、秀秋が陣を敷いていた松尾山に乗り込み、「金吾(秀秋)を叩き斬ってやる!」と叫んだとされますが、家臣である明石全登に止められ、敗走しました。


秀家は、伊吹山中に逃れて、居城であった岡山城はすでに荒らされていた為に島津義弘を頼って薩摩国へ落ち延び、牛根郷に匿われました。

ただし、島津が秀家を庇護しているという噂が広まり、徳川幕府から睨まれた為に、義弘の息子である忠恒によって幕府へ身柄が引き渡されました。一度は、死罪に決まりかけましたが、忠恒や正室豪姫の兄である前田利長の懇願によって死罪ではなく、駿河国久能山への雄平となり、慶長11年に歴史上初めて八丈島への配流処分となりました。

※参照:宇喜多秀家の能力はどれ位?家臣団やお家騒動から検証!

宇喜多秀家の八丈島での暮らしについて解説!


宇喜多秀家が八丈島へ配流となったのは34歳の時。その後秀家は、1655年に84歳で亡くなるまでの50年間を、八丈島の地で過ごす事になります。

ここでは、宇喜多秀家の八丈島の暮らしに関するエピソードをご紹介します。

ある時、八丈島の幕府代官に招かれ、食事を御馳走になった際に秀家は、2回お代わりをした上に3杯目を手ぬぐいに包み懐に入れて、「こんないい食事は島では食べられないから、家の者に持って帰ってやろうと思って」と述べたいう逸話が残っています。
このエピソードから、秀家にとっての八丈島での暮らしは大名の家に生まれ、出世街道を歩んできたエリートの彼にとっては、大変苦しい暮らしだったと推測できます。

また、関ヶ原の戦いで主に戦った福島正則の家来が八丈島へ嵐で流された際は、その家来に酒を恵んでもらったという逸話も残っています。


一方で、実家である前田家に戻っていた秀家の正室である豪姫は、家人を秀家に付け、また夫と共に八丈島に配流された2人の息子には乳母を付け、専属の医師まで八丈島に同行させました。

さらに、前田家は豪姫の弟である3代目の前田利常の時代から幕府から許可を得て、2年に1回のペースで、金銀や米・食糧・衣服、医薬品などを送り続けています。

この仕送りは秀家が亡くなった後も江戸時代が終わるときまで続けられました。

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宇喜多秀家の子孫は今でもいるのか?


秀家には、同じく八丈島に配流となった宇喜多秀高、秀規、秀継という3人の子供がいます。
そして彼らの子孫が、秀家の血脈を今に至るまで伝えています。

当時の八丈島は、罪を犯した人々の流刑地だったのですが、秀家の子孫は「浮田流人」と呼ばれ、他の罪人とは区別されていたそうです。また、「宇喜多」という名字を「浮田」や「喜田」などに変えた家もいて、合計で20家の分家がいたとされています。


明治時代になると、この中の7つの分家が前田家の計らいによって本土へ移住しています。
また、八丈島に残って秀家以来の墓を守り続ける一族もいるなど、秀家の子孫は現在でも色々な所へ残っているそうです。

現在の宇喜多家の当主は15代目にあたる宇喜多秀臣さんという方で、かつて秀家が居城としていた岡山城の築城400年の記念式典に参加したと報じられて話題になりました。

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この記事のまとめ


宇喜多秀家は、わずか26歳の時には五大老の1人になり、西軍最大の軍勢を率いて関ケ原で東軍最強と称される福島正則の軍勢と激しい戦いを演じましたが、小早川秀秋の裏切りにより敗走し、一時期は同じ西軍だった島津家に身を寄せていました。

その後に、八丈島に息子2人と共に配流されましたが、そこでの暮らしは大名の子として生まれ、太閤秀吉に愛された武将として暮らしてきた秀家にとっては苦しい暮らしでした。


ただ、正室豪姫や親戚筋にあたる前田家からの仕送りによって最低限の暮らしはできるようになり、当時としてはかなり長寿となる84歳まで生き延びました。

秀家の子孫は20家もの分家にわかれその血脈を伝えており、現在でも15代目の当主の方がいらっしゃいます。


ちなみに、宇喜多秀家が秀吉に気に入られた理由について以下の記事で考察しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:宇喜多秀家が秀吉お気に入りだった理由を母や妻などから検証