江戸時代において徳川将軍家の次の地位にあり、その統治を助けた徳川御三家
幕末から明治を経て、今はどうなっているのでしょうか。

この記事では、尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家の現在と、その末裔の方々についてご紹介します。

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尾張徳川家の末裔は実業家として活躍していた!


尾張徳川家は、家康の九男である徳川義直が始祖とする、徳川御三家の筆頭です。

江戸幕府の滅亡した後、14代目の当主である徳川慶勝は華族となり、また19代目の当主である徳川義親は尾張徳川黎明会(現在の徳川黎明会)や徳川美術館を設立するなど、貴重な物品の保護に力を尽くしました。

尾張徳川家の末裔で、現代の当主は22代目にあたる徳川義崇さんです。

徳川義崇さんは1961年生まれで2005年から尾張徳川家の当主を務めています。
彼は実業家やプログラマとして活躍し、また尾張徳川家の資産管理運営の代表取締役の職務にあたる他、徳川美術館の館長や徳川黎明会の会長も務めております。

※参照:徳川家康の家系図を簡単にわかりやすい形で解説!

紀伊徳川家の末裔は一流建築家!しかし問題が・・・


紀伊徳川家は、家康の十男である徳川頼宣が始祖で、8代目将軍である徳川吉宗、14代目将軍である徳川家茂を輩出しています。

江戸幕府滅亡後は、最後の藩主である徳川茂承(とくがわもちつぐ)が尾張徳川家と同様、華族になっています。

※参照:徳川御三家は幕末に何をした?尾張、紀伊、水戸の動向を解説!


また、紀伊徳川家は戦前、日本の富豪の代表格であり、戦後も第16代当主徳川頼貞が議員に当選するなど、その存在感を発揮しました。しかし、徳川頼貞の散財や借金返済、事業の失敗によりマスコミに叩かれるなど、かつてのような存在感はなくなっていったそうです。

そして、徳川頼貞の息子で17代目の当主である徳川が頼韶(とくがわよりあき)が1958年に亡くなると、その娘婿の剛氏が紀伊徳川家を継ぐも離婚してしまい、紀伊徳川家の家系は断絶したという見方もあります。

現在の紀伊徳川家は、建築家として活躍なさっている徳川宜子さんが19代当主を名乗っているものの、それを認めない声もあるようです。
徳川宣子さんは現在独身であり、この先紀伊家がどうなるか注目を集めています。

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多岐にわたって活躍中!水戸徳川家の末裔


水戸徳川家は家康の十一男である徳川頼房を始祖としており、御三家の中では石高が最も低く、かつては徳川御三家として認められていなかった時期もありました。
「水戸黄門」として知られる徳川光圀や、幕末に活躍した徳川斉昭、その息子で15大将軍を務めた徳川慶喜は、この水戸徳川家の出身です。

江戸幕府滅亡後、水戸徳川家は尾張家、紀伊家と同じく華族になりました。また、13代目当主を務めた徳川圀順が財団法人水府明徳会を設立し、貴重な文化財の保護を行った事でも知られています。

現在の水戸徳川家の末裔は、15代当主の徳川斉正さんです。彼は、東京海上日動火災保険の執行役員をなさっている他、徳川ミュージアムの理事長や、サッカークラブの水戸ホーリック後援会会長を務めるなど、多岐にわたって活躍されています。また、その息子である徳川斉礼さんは、Twitterでの発言がネットで話題になった事でも知られています。

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この記事のまとめ


今回は、徳川御三家の現在と、その末裔の方々についてご紹介しました。

徳川御三家の末裔の方々は、実業家、建築家、執行役員とそれぞれの分野で活躍されていますね。
徳川家康という、1つの時代を切り開いた力が、末裔の方々にも継承されているのでしょうか。

なお、尾張と紀伊の末裔の方には、それぞれの始祖の漢字の一部が名前に入っており、また水戸の末裔の方にも先祖の漢字の一部が含まれているなど、一族の歴史を感じますね。


余談ですが、これら徳川御三家、そして徳川宗家のみが使用を許されたのが、以下の記事で解説してる「葵の御紋」でした。水戸黄門の発言でも有名なこの家紋、一体どういったものなのか?興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

※参照:徳川家康の家紋「葵紋」の意味とその由来とは?