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大河ドラマやゲームで右目に眼帯をつけた武将を見かけたことがありませんか?
彼は伊達政宗と言い、戦国武将の中でも根強い人気を誇っている人なんですよ。

人気沸騰中の伊達政宗とは一体どんな人だったのでしょうか。そこで今回は、伊達政宗の一生を年表でわかりやすく解説するとともに、目に眼帯をつけている謎にも迫ります!
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伊達政宗はどんな人だったのか


まずは伊達政宗がどんな人だったのか、簡単に見ていきましょう。

伊達政宗は1567年に、出羽国米沢(現在の山形県米沢市)で米沢城城主・伊達輝宗の嫡男として生まれました。1577年にわずか10歳で元服し、幼名の「梵天丸」から「政宗」へと改名します。

政宗の幼少時代は決して順風満帆なものではなく、4歳のときに疱瘡(天然痘)で右目を失明したことをきっかけに、ふさぎがちな少年時代を過ごしています。しかし、1584年に伊達家17代目当主に就任すると、一転して活動的な青年に変貌します。1585年から1589年にかけて人取橋の戦いや大崎合戦、摺上原の戦いといった戦を仕掛け、奥州南部を平定する事に成功しています。

若き頃の政宗は、血気盛んかつ領土欲の強い武将と言えそうですね。
その後、豊臣秀吉が天下統一に向けて王手をかけると、政宗は秀吉の配下に下ります。秀吉の臣下としては朝鮮出兵(文禄の役)に従軍しました。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川家康の味方をし、西軍方の上杉家家老・直江兼続を牽制します。政宗は1601年に仙台城を築城し、初代仙台藩主として君臨します。藩主となった政宗は諸外国との交流や領地の開発・発展に力を入れ、1636年に死去しました。

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伊達政宗の年表をわかりやすく紹介


続いて、伊達政宗の年表をわかりやすくご紹介します。


・1567年(0歳)
現在の山形県米沢市にて、伊達輝宗の長男として生まれる。


・1571年(4歳)
疱瘡(天然痘)にかかり、右目を失明する。


・1577年(10歳)
元服。これを機に、伊達源次郎政宗と名乗る。


・1579年(12歳)
陸奥国磐城三春城城主・田村清顕の娘である「愛姫」と結婚する。


・1584年(17歳)
父、伊達輝宗が隠居する。
家督を継いだ政宗は伊達家17代目当主となる。


・1585年(18歳)
小手森城なで斬り事件、粟之巣の変、人取橋の戦いに出陣。


・1588年(21歳)
大崎合戦に出陣し、対立していた出羽国(山形県)の最上義光と和睦。


・1589年(22歳)
摺上原の戦いで蘆名義広を破り、奥州南部を平定。
奥州の武将たちを従えることにも成功し、合計114万石を支配下に置く。


・1590年(23歳)
豊臣秀吉、小田原征伐を行う。
政宗も秀吉の元へ馳せ参じ、以後秀吉の配下に下る。

※参照:伊達政宗の小田原合戦への参陣。伊達家と北条家の関係は?


・1592年(25歳)
文禄の役に出陣する。
派手な格好をして参戦し、「伊達者」と呼ばれるようになる。


・1597年(30歳)
豊臣秀次が切腹。秀次と親しかった政宗にも謀反の疑いがかかる。


・1600年(33歳)
関ヶ原の戦いが勃発する。
東軍に味方した政宗は、上杉家家老・直江兼続と戦う。


・1601年(34歳)
仙台城を築城し、初代仙台藩主に就任する。


・1613年(46歳)
家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣(慶長遣欧使節)する。


・1614年~1615年(47~48歳)
大坂冬の陣・夏の陣に出陣して手柄を立てる。

※参照:伊達政宗と大坂の陣。神保相茂や真田幸村との縁について解説


・1636年(69歳)
腹膜炎、あるいは食道がんが原因でなくなる。


若き頃の伊達政宗は積極的に戦を起こし、武力をもって奥州を平定することに力を注いだことがわかりますね。一方で、豊臣秀吉や徳川家康といった老練の武将たちが天下統一を果たすと、さすがの政宗も臣下に下るしかなかったようです。

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伊達政宗の目に付けている眼帯について


ドラマやゲームで目にする伊達政宗は右目に眼帯をつけていますよね。
この政宗の目の眼帯について、もう少し詳しくご紹介します。

前述したように、政宗は4歳の時に右目を失明しています。ですが、政宗が失明を隠すために眼帯をしていたという記録は残っていないのです。つまり、「眼帯姿の伊達政宗」は後世の創作と言えるでしょう。

その一方で、右目を覆うようにして布を巻いていたという記録が残っています。
2016年大河ドラマ『真田丸』で描かれる政宗は右目に布を巻いていますが、どちらかというとこちらの方が実際の政宗に近いかもしれませんね。

肖像画や木像に関しては、政宗の「親からもらった片目を失ったのは不孝である」という考えのもと、右目を小さくしたものが作成される傾向にあります。
以下は、1676年に狩野安信が描いた伊達政宗画像です。

※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗


ただし、江戸時代中期に土佐光貞が描いた政宗の肖像画は片目が閉じられています。光貞がなぜ、隻眼の肖像画を描いたのかは定かではありません。政宗の意向を知らなかったのか、あえて隻眼の政宗を描くように頼まれたのかもしれません。

※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗


また、政宗の代名詞として用いられる「独眼竜」というあだ名は、実は中国の李克用(りこくよう)という武将につけられたあだ名であり、政宗固有のものではありません。
江戸時代の歴史学者である頼山陽(らいざんよう)という人物が、政宗に「独眼竜」のあだ名をあてはめたことがきっかけで「政宗=独眼竜」と呼ばれるようになったのです。

これ以外には、政宗は李克用という人物が武勇に優れたことを知っていて、その強さにあやかろうとしたという説もあります。

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この記事のまとめ


伊達政宗ってどんな人?」というテーマで、政宗の年表や彼の右目にある眼帯についてご紹介しました。

伊達政宗は自ら先陣を切って奥州地方を統一した血気盛んで武勇に優れた武将だった一方で、戦が無い世の中になると、外国との交流や内政に力を入れた政治家としての一面もある武将です。

政宗の代名詞でもある目の眼帯は後世の創作であり、「独眼竜」というあだ名も政宗発祥のものではありません。ですが、創作の対象になるということは、政宗はそれだけ魅力的な武将であることを証明しているのではないでしょうか。


なお、以下の記事では伊達政宗の実際の評価について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:伊達政宗の凄さって何だったの?過大評価の真相に迫る!