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豊臣秀吉が行った朝鮮出兵は「文禄・慶長の役」と呼ばれ、豊臣政権における一大軍事事業として知られています。その一方で、出兵に参加した諸大名たちを疲弊させるなど、豊臣政権を衰退させるきっかけを招いたとも言われています。


秀吉はなぜ朝鮮出兵を行ったのでしょうか。

その理由と結果を追うとともに、出兵の際に築かれた名護屋城についても解説します。
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豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った理由について


そもそもなぜ、豊臣秀吉は朝鮮出兵を行ったのでしょうか。


秀吉が朝鮮出兵を行った理由として、当時の恩賞システムを挙げることが出来ます。

当時の大名たちは秀吉の天下統一事業に協力する見返りとして土地を得て、自らの領地を拡大していきました。しかし、日本国内を統一したとなると、秀吉は大名たちに新たな土地を与えることができなくなります。

現代風に言うと、給料を支払うことができなくなるということですね。給料が支払われないとなると大名たちの不満は高まり、豊臣政権の求心力も低下してしまいます。そうした政権の弱体化を防ぐため、秀吉は新たな土地を求めて海外に進出したのではないでしょうか。


その一方で、秀吉は若い時期から海外出征を構想していた点も見逃せません。

『朝鮮征伐記』に掲載された逸話によると、秀吉は信長の家臣時代から既に大陸進出の着想を得ていたようであり、1585年には正式な記録に秀吉の朝鮮出兵構想が明らかにされています。
これらのことから、秀吉は天下統一を果たす前から出兵を構想していたと言えるでしょう。

その背景には、スペインやポルトガルといった西洋諸国の東アジア進出に対する対抗意識や、明や朝鮮との外交関係の悪化といった対外的要因を見出すことができます。朝鮮出兵には、内的要因だけでなく、こうした対外的要因も理由の一つにあったのかもしれませんね。

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朝鮮出兵の際に築かれた名護屋城について


秀吉は朝鮮出兵を行うにあたって、補給・連絡・宿場の拠点として肥前国松浦郡(現在の佐賀県唐津市)に名護屋城を建築します。名護屋城は1591年8月から築城を開始し、黒田孝高(官兵衛)、黒田長政、加藤清正、寺沢広高といった九州地方の大名が突貫工事にあたった結果、1592年3月に完成しました。

※参照:加藤清正と熊本城の関係とは。築城技術や秀頼伝説について!


そしていざ朝鮮出兵が始まると、小西行長・宗義智軍を先陣に、のべ20万人以上の兵力がここから出征しました。秀吉本人も名護屋城に約1年に渡って滞在しています。

当時の名護屋城は大坂城に次ぐ規模を誇るものであり、大勢の大名やその家臣たちが集結したことから、出兵の期間中は経済の中心地として栄えました。秀吉の死後、朝鮮から撤退するのと同時にその役割を終え、寺沢広高の管理下におさめられました。1602年に寺沢が唐津城を築城するにあたり、名護屋城は解体されます。現在は石垣などの遺構が残っている程度です。

この名護屋城址は国の特別史跡に指定されており、2006年には日本100名城にも選ばれました。

朝鮮出兵の結果について。豊臣政権に与えた影響は?


秀吉の死によって終わりを告げた朝鮮出兵。
その結果を、もう少し詳しく見ていきましょう。

1592年4月から開始された文禄の役では、小西行長隊が漢城を無血で占領するなど陸戦における快進撃を見せる一方、海戦では李舜臣率いる朝鮮水軍を前に苦戦し、制海権を失います。
そして兵力や兵糧の輸送が滞る中、7月には明軍が参戦します。1593年3月に食糧庫に大打撃を受けた豊臣軍は、明と和平交渉を開始します。

※参照:脇坂安治と李舜臣の関係は?関ヶ原での裏切りや子孫について


しかし、文禄の役の和平交渉は決裂し、1597年には再出兵(慶長の役)が開始されます。

蔚山城の戦いで勝利をおさめた日本軍は、1599年に大規模な再出兵を行う計画を立てるものの、その前年に肝心の秀吉が死去してしまいます。これによって、豊臣政権内ではそれまで秀吉によって抑えられていた大名の権力対立などが顕在化します。このような状況下で対外遠征を続けることはできず、朝鮮出兵は完全撤退という結果に終わりました。


朝鮮出兵の撤退という結果は、豊臣政権にも大きな打撃をあたえました。

出兵に参加した西国大名の疲弊はすさまじいものであり、出兵を計画・実行した豊臣政権に対する不満を募らせるようになります。直接出兵はしなかったものの、弾薬や兵粮といった後方支援にあたった大名も同じように不満を抱くようになります。


また、豊臣政権内では、軍務を担う武断派勢力と政務を担う文治派勢力が対立を深める結果になりました。特に、出兵に参加していないにも関わらず、豊臣政権内で発言権を持つ石田三成に対する武断派武将の反発は大きいものでした。

その一方で、当時もっとも力を持っていた有力大名である徳川家康は配下を出兵させておらず、出兵後の外交処理を担うのみでした。兵力の温存に成功した家康はその後、豊臣政権に匹敵する権力を握るようになっていきます。これらのことから、朝鮮出兵とは豊臣政権を弱体化させる結果に終わったと言えるのではないでしょうか。

※参照:家康が秀吉に臣従した訳は?その関係や遺された遺言について

この記事のまとめ


天下統一を果たした後、国内から国外へと視点を広げた豊臣秀吉。
朝鮮出兵が行われた理由と結果は、以下のようにまとめることができます。


・朝鮮出兵が行われた理由は、諸大名に与えるための新たな土地を獲得するため
・拠点として築城された名護屋城は、築城からわずか10年で解体された
・文禄の役、慶長の役で日本軍は奮戦するものの、李舜臣率いる水軍に苦戦した
・朝鮮出兵は豊臣政権への不満を誘発すると同時に、弱体化を招いた



諸大名へ土地を分配するといった理由で朝鮮出兵を画策した秀吉は、豊臣政権の維持・盤石化を狙っていたのでしょう。ですが、朝鮮出兵をきっかけに豊臣政権が弱体化したことを思うと、さすがの天下人でもこの結果は想像できなかったのかもしれませんね。

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