貼り付けた画像_2016_07_22_20_41


天草四郎や島原の乱と言えば、歴史好きな方であれば一度は聞いた事はあると思います。

でも、そこまで詳しくは知らないんだよね・・・という方も少なくないのではないでしょうか。


そこで今回は、天草四郎がどんな人だったのかを、年表や島原の乱との関係について触れながら解説していきたいと思います。
スポンサードリンク

天草四郎はどんな人だったのかをわかりやすく解説!


まずは天草四郎がどんな人だったのかを、簡単に見ていきましょう。

天草四郎は1621年、今の天草諸島・大矢野島(現在の熊本県天草市)で、豊臣秀吉の重臣で関ヶ原の合戦で斬首されたとされる小西行長の遺臣・増田甚兵衛の子として誕生しました。
この増田甚兵衛という人物は百姓として生活していたそうですが、元々キリシタン大名の家臣であったことから経済的には裕福であったとされ、このため四郎も幼い頃から学問に慣れ親しみ教養豊かな人物であったと言われています。

さて、天草四郎には様々な伝説があります。
盲目の少女の目を触れるだけで治したり海面を歩いたという話や、雀の止まっている枝を折っても逃げなかったという、一見信じられないエピソードの持ち主でもあります。

ちなみに四郎は相当な美男子であったとも伝わっており、あまりの美しさに実は女であったのではという説もあるのだとか。


その後、四郎は1637年の島原の乱の総指揮官としてその名を知られることになりますが、幕府軍の圧倒的な攻撃の前に敗北し、まだ若かった四郎も斬首されその生涯を閉じました。
一説では、豊臣秀吉の嫡男・秀頼の落胤であったという噂もあり、大坂夏の陣で死亡していたはずの秀頼が、実は生き延びていてのちに成した子供が天草四郎ではないかと言われています。

ただ信憑性はかなり低く、この説は創作に過ぎないというのが通説です。

※参照:豊臣秀頼の評価は凡庸か?墓が鹿児島にある理由について!

天草四郎の年表を簡単に紹介!


ここでは、天草四郎の年表を簡単に振り返っていきましょう!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・1614年
宣教師ママコフが「25年後に起こる天変地異の際16歳の天童が現れ、キリスト教に準じる者は救われる」との予言をする。


・1621年
増田四郎(のちの天草四郎時貞)天草諸島大矢野島にて誕生。


・1630年~1636年
手習いや学問を習いに長崎などを度々訪問して過ごす。
(この間に様々な奇跡を起こしたとされる)


・1637年
島原天草の乱勃発。総大将となり、一揆を指揮・指導。
一揆軍を統合して原城に籠城し、本丸に礼拝堂を設け日夜祈祷を行い、軍の士気と信仰を深める。


・1638年4月12日
肥後藩士・陣佐左衛門によって城内にて斬首される。

スポンサードリンク


天草四郎の資料は非常に少なく、特に出生から島原の乱が起こるまでの生活については不明な点が多いとされています。

また、同じく天草のキリシタンで一揆の大将を務めた有家監物の娘と結婚していたという説もありますが、これについても詳しい資料はありません。

天草四郎と島原の乱について解説!


最後に、天草四郎が起こした島原の乱について振り返ってみましょう。

天草四郎が誕生する前後の天草・島原地方は、飢饉や重税・キリシタン弾圧に苦しめられており、大凶作の折でも容赦ない年貢の取り立てや繰り返される非道なキリシタンに対する迫害の数々に民衆の不満は日に日に高まっていました。


そんな折、宣教師ママコフが「25年後に起こる天変地異の際16歳の天童が現れ、キリスト教に準ずる者は救われる」との予言を残します。

1637年に起こった島原の乱では、長崎留学から帰り数々の奇跡を起こしたとされる四郎を、この宣教師の予言に出てくる天童であると民衆たちは固く信じ、まだわずか16歳の四郎を総大将として立て富岡城を攻め落とし、籠城して3か月間も戦うことになります。


神の子の再来であると言われ、そのカリスマ性やずば抜けた美貌で天童と呼ばれていた四郎が一揆軍の総大将として自ら先陣を切ったと言われていますが、四郎はまだ当時10代半ばの少年。

実際の指揮は、父親の増田甚兵衛をはじめとする浪人や庄屋たちでした。四郎はその人気度から島原の乱の最高指導者として祭り上げられたと言った方が正しいのかもしれません。


素人集団の一揆軍は激しい幕府軍の攻撃にもよく耐えましたが籠城の末、幕府軍の更なる攻撃によって全滅。島原城も落城し、幕府軍にも8千人の死傷者を出して終結。

四郎もこの時幕府側の藩士によって斬首され、生まれながらの天性に振り回される結果となったその短い生涯を閉じることになりました。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


天草四郎がどんな人だったのかを、年表や島原の乱などを振り返りながら解説しました。

天草四郎には様々な逸話がある一方で、実際にどのような人だったのかは定かではありません。ただ、これだけのエピソードがあるという事は、やはりどこか魅力的な人物だったのではないでしょうか。四郎のカリスマ性が、3万7000千という大きな一揆軍を動かしていたことは動かす事の出来ない事実と言えるでしょう。


なお、以下の記事では四郎と同世代の人物である徳川家光について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川家光ってどんな人?年表や島原の乱を小学生向けに解説!